邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。
伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。
里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。
魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。
『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。
三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。
伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。
里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。
魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。
『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。
三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。
三国志に出てくる「統属」は6か所。
「A統属B」は全て、
一)"元々別所属"のAとBが、
二)新たな所属変化に伴う"人事異動"によって、
三)AがBの「直接の部下」になる、の意味。
☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)
☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。
☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。
☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督~前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。
「A統属B」は全て、
一)"元々別所属"のAとBが、
二)新たな所属変化に伴う"人事異動"によって、
三)AがBの「直接の部下」になる、の意味。
☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)
☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。
☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。
☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督~前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。
<後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>「南與辰韓北與高句麗沃沮接」
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>「南與辰韓北與高句麗沃沮接」
奈良時代までの女性天皇は6人8代だが、うち4人が結婚してるし子も産んでいる。
あるいは神功皇后。
豊国女王とも考えられる、宗像三女神の少なくとも二柱や、豊玉姫。
八咫鏡を保有していた神夏磯媛も、夏羽と田油津姫兄妹がその子孫と伝わる。
つまり、古代において女帝だからといって、結婚も出産もしていたわけであるから、
卑弥呼の無夫壻というのは特殊な状況であり、
卑弥呼は何らかの理由で、
「女王にはなれるけれども、結婚はできない状況」にあった、可能性が出てくる。
「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」
王位継承で重要なのは前例、慣例であるから、
壹與を十三歳で王となしたということは、
卑弥呼もまたそれくらいの年齢で王となったという前例があった可能性が高くなる。
卑弥呼は13歳くらいで、まず奴國不彌國の地方女王となった。
女王國=奴國不彌國の運営がうまくいっていたので婚期がやや遅れた。
結婚しないまま女王業務に邁進していたら、20歳前後でHAMを発症した。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/709-710
女王業務は既に成果を上げていたので、そのまま周囲も認めてくれた。
古代女王としては結婚はしないこととなった。
ますます仕事に邁進して業績をあげて、倭国女王に共立されることとなった。
これならば「自爲王以來、少有見者」の説明もつく。
あるいは神功皇后。
豊国女王とも考えられる、宗像三女神の少なくとも二柱や、豊玉姫。
八咫鏡を保有していた神夏磯媛も、夏羽と田油津姫兄妹がその子孫と伝わる。
つまり、古代において女帝だからといって、結婚も出産もしていたわけであるから、
卑弥呼の無夫壻というのは特殊な状況であり、
卑弥呼は何らかの理由で、
「女王にはなれるけれども、結婚はできない状況」にあった、可能性が出てくる。
「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」
王位継承で重要なのは前例、慣例であるから、
壹與を十三歳で王となしたということは、
卑弥呼もまたそれくらいの年齢で王となったという前例があった可能性が高くなる。
卑弥呼は13歳くらいで、まず奴國不彌國の地方女王となった。
女王國=奴國不彌國の運営がうまくいっていたので婚期がやや遅れた。
結婚しないまま女王業務に邁進していたら、20歳前後でHAMを発症した。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/709-710
女王業務は既に成果を上げていたので、そのまま周囲も認めてくれた。
古代女王としては結婚はしないこととなった。
ますます仕事に邁進して業績をあげて、倭国女王に共立されることとなった。
これならば「自爲王以來、少有見者」の説明もつく。
>>11
卑弥呼の女系はHTLV-1保有の九州縄文系でしょうね。
対馬海峡渡海で漂流すると、沖ノ島で漁をしていた古代豊国人に救助される確率が高いですから、
命の恩人として手厚くお礼をすることになる。
HTLV-1保有者は九州の中では僻地へと押しやられる傾向がありますが、
豊国縄文人だけは命の恩人として厚遇され、
政治的にも生き残ることができたのでしょうね。
ただし宗像の田熊石畑遺跡は、将軍が代々派遣されていた多重環濠遺跡ですから、
吉武高木大王配下の将軍が常駐して、
日本海沿岸を支配する拠点として機能しつつ、
豊国を監視もしていたわけですね。
在日米軍基地のようなものですね。
卑弥呼の女系はHTLV-1保有の九州縄文系でしょうね。
対馬海峡渡海で漂流すると、沖ノ島で漁をしていた古代豊国人に救助される確率が高いですから、
命の恩人として手厚くお礼をすることになる。
HTLV-1保有者は九州の中では僻地へと押しやられる傾向がありますが、
豊国縄文人だけは命の恩人として厚遇され、
政治的にも生き残ることができたのでしょうね。
ただし宗像の田熊石畑遺跡は、将軍が代々派遣されていた多重環濠遺跡ですから、
吉武高木大王配下の将軍が常駐して、
日本海沿岸を支配する拠点として機能しつつ、
豊国を監視もしていたわけですね。
在日米軍基地のようなものですね。
倭奴国が伊都国であるって説は、日本語の漢字読みからの連想に過ぎず、古代中国語発音を全く無視していて成り立たない奇説。
古代中国語発音(Middle Chinese他)
倭:ワまたはヲ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%80%AD
奴:ナまたはヌ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B4
伊:イ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%8A
都:トゥォまたはトゥ、ト
https://en.wiktionary.org/wiki/%E9%83%BD
つまり倭奴はワナ、ヲヌと発音され、
伊都はイトゥォ、イト。全く違う発音になる。
奴をトまたはドと発音するのは漢字文化圏の国で日本だけ。奴婢のヌと言う発音だけが他国でも一般的な漢字音。
古代中国語発音(Middle Chinese他)
倭:ワまたはヲ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%80%AD
奴:ナまたはヌ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B4
伊:イ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%8A
都:トゥォまたはトゥ、ト
https://en.wiktionary.org/wiki/%E9%83%BD
つまり倭奴はワナ、ヲヌと発音され、
伊都はイトゥォ、イト。全く違う発音になる。
奴をトまたはドと発音するのは漢字文化圏の国で日本だけ。奴婢のヌと言う発音だけが他国でも一般的な漢字音。
百済に漢字をもたらした中国人の博士高興。
百済は4世紀末まで漢字がなく、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わった。伝った漢字をすぐに倭国から博士を派遣しろと言われて、倭国にも伝えた。中国文化を取り入れてすぐ日本に渡したのが百済である。元から半島に偉大な文明があったりした訳ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%e9%ab%98%e8%88%88_(%e7%99%be%e6%b8%88)
百済は4世紀末まで漢字がなく、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わった。伝った漢字をすぐに倭国から博士を派遣しろと言われて、倭国にも伝えた。中国文化を取り入れてすぐ日本に渡したのが百済である。元から半島に偉大な文明があったりした訳ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%e9%ab%98%e8%88%88_(%e7%99%be%e6%b8%88)
古事記だとか日本書紀に書かれてるけど、百済のどの王の時代の話かは議論が分かれる模様。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%82%96%E5%8F%A4%E7%8E%8B#%e5%80%ad%ef%bc%88%e6%97%a5%e6%9c%ac%ef%bc%89%e3%81%a8%e3%81%ae%e9%96%a2%e4%bf%82
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%82%96%E5%8F%A4%E7%8E%8B#%e5%80%ad%ef%bc%88%e6%97%a5%e6%9c%ac%ef%bc%89%e3%81%a8%e3%81%ae%e9%96%a2%e4%bf%82
男子爲王住七八十年=日向三代とするのなら、
自動的に、
倭国乱の開始=神武東征になる。
倭人伝だと「倭國亂 相攻伐歷年」、後漢書だと「桓靈閒倭國大亂 更相攻伐 歷年無主」で倭国王が不在となってる。
あと不思議なのは、第二代の綏靖はなんで欠史扱いなのだろう。
普通に事績が記録されているのだが。
自動的に、
倭国乱の開始=神武東征になる。
倭人伝だと「倭國亂 相攻伐歷年」、後漢書だと「桓靈閒倭國大亂 更相攻伐 歷年無主」で倭国王が不在となってる。
あと不思議なのは、第二代の綏靖はなんで欠史扱いなのだろう。
普通に事績が記録されているのだが。
倭人伝に「収租賦」とあるから、硯が出土している以上、租賦を文字で記録していた可能性は非常に高いんだよね。
400年前後と言われる崇神も戸数調査をして課役したと紀に書かれてるし。
日本での木簡出土は今のところ7世紀末くらいからだけど、戸籍や租税に関する調査票みたいなのが主で、
文書・手紙の類が少ない。
一つの可能性としては、「種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜」
絹が特産品だったんだから、
贅沢なことに、絹を紙の代わりに使っていた、
いわゆる「帛書(はくしょ)」の可能性があるね。
金印を使う国家間の外交文書は、案の上で木簡文書を作成して、封泥していたけど、
国内での手紙のやり取りは美しい帛書で行っていたのではないか。
正始四年の伊聲耆掖邪狗らが献上したのが、
「生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木𤝔短弓、矢」とあり、
綿の衣服の次に、絹布や絹衣や帛衣でなく、帛布だから、
これは絹の帛書だった可能性があるね。
帛書は中国でも使われていたから喜ばれただろう。
文書が帛書に書かれていたのなら、まずまず残っている可能性は無いだろうね。
ただそれでも、戸籍や租税の記録は木簡だったろうから、そちらすら見つからない理由にはならないけど。
400年前後と言われる崇神も戸数調査をして課役したと紀に書かれてるし。
日本での木簡出土は今のところ7世紀末くらいからだけど、戸籍や租税に関する調査票みたいなのが主で、
文書・手紙の類が少ない。
一つの可能性としては、「種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜」
絹が特産品だったんだから、
贅沢なことに、絹を紙の代わりに使っていた、
いわゆる「帛書(はくしょ)」の可能性があるね。
金印を使う国家間の外交文書は、案の上で木簡文書を作成して、封泥していたけど、
国内での手紙のやり取りは美しい帛書で行っていたのではないか。
正始四年の伊聲耆掖邪狗らが献上したのが、
「生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木𤝔短弓、矢」とあり、
綿の衣服の次に、絹布や絹衣や帛衣でなく、帛布だから、
これは絹の帛書だった可能性があるね。
帛書は中国でも使われていたから喜ばれただろう。
文書が帛書に書かれていたのなら、まずまず残っている可能性は無いだろうね。
ただそれでも、戸籍や租税の記録は木簡だったろうから、そちらすら見つからない理由にはならないけど。
中国で出土した3世紀以降の帛書を成分解析して日本産の絹が見つかると面白いけどね。
竹帛の記載だと竹簡や帛書で名が残るほどの名声を挙げる、という意味で帛書だけど、
単に帛だけだと絹布の意味だろうから、どうだろうね。
日本で見つかってる弥生時代の絹は絹線維とかまで分解されたものが多いから帛書の形での発見は難しそう。
楠木材と一緒に甕棺や土器に入ってたら樟脳成分で保存されてたりするかな。
竹帛の記載だと竹簡や帛書で名が残るほどの名声を挙げる、という意味で帛書だけど、
単に帛だけだと絹布の意味だろうから、どうだろうね。
日本で見つかってる弥生時代の絹は絹線維とかまで分解されたものが多いから帛書の形での発見は難しそう。
楠木材と一緒に甕棺や土器に入ってたら樟脳成分で保存されてたりするかな。
魏の発音が現在の北京語って言ってる時点で素人丸出し。
現代で言えば、客家語や広東語の方がよほど中古音の特徴を色濃く残してる。北京地域の発音は、次から次へと遊牧民に蹂躙されて、宋の時代には漢人国家は南宋だけ、北は遊牧民国家、元の時代もモンゴル人と言う有様で、過去と全く異なる発音に変わってる。
https://youtu.be/OX047xj6HtQ
現代で言えば、客家語や広東語の方がよほど中古音の特徴を色濃く残してる。北京地域の発音は、次から次へと遊牧民に蹂躙されて、宋の時代には漢人国家は南宋だけ、北は遊牧民国家、元の時代もモンゴル人と言う有様で、過去と全く異なる発音に変わってる。
https://youtu.be/OX047xj6HtQ
>>29
>>30
下記サイトで特に末盧国をあたってみて下さい。ほとんど、異民族が来てもほとんど
変わっていません。(中国のサイトです)
https://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccr/
理由は中国側で異民族の侵入があっても、異民族が漢字を使用するためには、
元の中国人に教えを乞う必要があります。このため、言葉自体は変化しても
漢字の発音は変わらない可能性が高いです。
さらに、末盧国は日本の邪馬台国論者が、松浦=末盧としてるので、松は中国の発音が
ないため、無理やり末を持ってきて魏志倭人伝論者が末盧muatlaにしたのでは
ないかと言う言語学者の説があります。
>>30
下記サイトで特に末盧国をあたってみて下さい。ほとんど、異民族が来てもほとんど
変わっていません。(中国のサイトです)
https://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccr/
理由は中国側で異民族の侵入があっても、異民族が漢字を使用するためには、
元の中国人に教えを乞う必要があります。このため、言葉自体は変化しても
漢字の発音は変わらない可能性が高いです。
さらに、末盧国は日本の邪馬台国論者が、松浦=末盧としてるので、松は中国の発音が
ないため、無理やり末を持ってきて魏志倭人伝論者が末盧muatlaにしたのでは
ないかと言う言語学者の説があります。
>>29
>>30
下記サイトで特に末盧国をあたってみて下さい。ほとんど、異民族が来てもほとんど
変わっていません。(中国のサイトです)
https://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccr/
理由は中国側で異民族の侵入があっても、異民族が漢字を使用するためには、
元の中国人に教えを乞う必要があります。このため、言葉自体は変化しても
漢字の発音は変わらない可能性が高いです。
さらに、末盧国は日本の邪馬台国論者が、松浦=末盧としてるので、松は中国の発音が
ないため、無理やり末を持ってきて魏志倭人伝論者が末盧muatlaにしたのでは
ないかと言う言語学者の説があります。
>>30
下記サイトで特に末盧国をあたってみて下さい。ほとんど、異民族が来てもほとんど
変わっていません。(中国のサイトです)
https://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccr/
理由は中国側で異民族の侵入があっても、異民族が漢字を使用するためには、
元の中国人に教えを乞う必要があります。このため、言葉自体は変化しても
漢字の発音は変わらない可能性が高いです。
さらに、末盧国は日本の邪馬台国論者が、松浦=末盧としてるので、松は中国の発音が
ないため、無理やり末を持ってきて魏志倭人伝論者が末盧muatlaにしたのでは
ないかと言う言語学者の説があります。
>記紀風土記などでの文字表記から類推するのが正攻法なのだなこれが。
記紀だと、末の読みは、ま、まつ、すえ、など。
どちらかというと、中国語寄りに考えるなら、ま、まつ。
後の平仮名の「ま」も末から産まれているし。
倭人伝を意識した神功皇后の箇所でも、末羅縣(まつら・がた)だね。
記紀だと、末の読みは、ま、まつ、すえ、など。
どちらかというと、中国語寄りに考えるなら、ま、まつ。
後の平仮名の「ま」も末から産まれているし。
倭人伝を意識した神功皇后の箇所でも、末羅縣(まつら・がた)だね。
出雲が銅鐸王国というが、
北部九州銅矛荒神谷遺跡と、例外的な大量一括埋納加茂岩倉遺跡で目立ってるだけで、
それを除けばむしろ銅鐸の無い地域。
さらに銅鐸時代の出雲に目立った集落遺跡はない。
後の四隅突出型墳丘墓になってそれなりに栄えるが、
その時には日本海沿岸から銅鐸はとっくに姿を消している。
出雲が銅鐸を作って関連地域に配布していた、とするにしても、
瀬戸内東部や畿内などの、銅鐸分布地域までの地域連続性が無さすぎ。
いい加減に、出雲系=銅鐸国家、という誤った認識は捨てるべき。
北部九州銅矛荒神谷遺跡と、例外的な大量一括埋納加茂岩倉遺跡で目立ってるだけで、
それを除けばむしろ銅鐸の無い地域。
さらに銅鐸時代の出雲に目立った集落遺跡はない。
後の四隅突出型墳丘墓になってそれなりに栄えるが、
その時には日本海沿岸から銅鐸はとっくに姿を消している。
出雲が銅鐸を作って関連地域に配布していた、とするにしても、
瀬戸内東部や畿内などの、銅鐸分布地域までの地域連続性が無さすぎ。
いい加減に、出雲系=銅鐸国家、という誤った認識は捨てるべき。
伊都説だと、三雲南小路王墓から柏崎遺跡が笠沙の岬となり、
唐津が吾田=阿多であるから、その勢力が山を越えて佐賀市側に入って、
阿邪訶(ア・ザカ)だったのだな。
吉野ヶ里の甕棺墓女性の時代だな。
70年に奴国王が失脚して、
伊邪國の奴国王系水軍(比良夫貝)と吉野ヶ里が対峙していたから、
阿邪訶(ア・ザカ)の海、つまり有明海で比良夫貝水軍に襲われたわけだ。
当時は佐賀平野が無く、甕棺墓の分布のように山地にへばりつくように、
干潟に面した坂だけの土地だった。
そこをある程度開発した勢力が王となり、
邪馬嘉(ザマガ)國として、独自外交で虺龍紋鏡を入手した。
収入源は、同じ肥国である肥後の木材。トンカラリンだな。
山を越えたら対馬海峡だし、弥生倭国なら交易の好立地ではある。
だが、邪馬嘉國は倭国乱で荒廃もしくは滅亡し、
狗奴国もまた筑後→邪馬嘉→末蘆→対馬海峡と占領して金銀鉄鏡を入手した。
後の川上タケルが川上を名乗っているということは、佐賀にゆかりのある奴族だった可能性があり、
これが阿邪訶時代からのゆかりであれば、例の甕棺墓女性と奴国王との間の子孫である可能性も出てくる。
卑彌呼と卑彌弓呼の名が似ているのも、その辺りの先祖が共通しているのかもしれんな。
阿邪訶(アザカ)→邪馬嘉(ザマカ)→佐嘉(栄サカ)→佐賀
唐津が吾田=阿多であるから、その勢力が山を越えて佐賀市側に入って、
阿邪訶(ア・ザカ)だったのだな。
吉野ヶ里の甕棺墓女性の時代だな。
70年に奴国王が失脚して、
伊邪國の奴国王系水軍(比良夫貝)と吉野ヶ里が対峙していたから、
阿邪訶(ア・ザカ)の海、つまり有明海で比良夫貝水軍に襲われたわけだ。
当時は佐賀平野が無く、甕棺墓の分布のように山地にへばりつくように、
干潟に面した坂だけの土地だった。
そこをある程度開発した勢力が王となり、
邪馬嘉(ザマガ)國として、独自外交で虺龍紋鏡を入手した。
収入源は、同じ肥国である肥後の木材。トンカラリンだな。
山を越えたら対馬海峡だし、弥生倭国なら交易の好立地ではある。
だが、邪馬嘉國は倭国乱で荒廃もしくは滅亡し、
狗奴国もまた筑後→邪馬嘉→末蘆→対馬海峡と占領して金銀鉄鏡を入手した。
後の川上タケルが川上を名乗っているということは、佐賀にゆかりのある奴族だった可能性があり、
これが阿邪訶時代からのゆかりであれば、例の甕棺墓女性と奴国王との間の子孫である可能性も出てくる。
卑彌呼と卑彌弓呼の名が似ているのも、その辺りの先祖が共通しているのかもしれんな。
阿邪訶(アザカ)→邪馬嘉(ザマカ)→佐嘉(栄サカ)→佐賀
奴国王が失脚した時に、その水軍大将だった息子は金印を持って諏訪に逃げかけたと見せかけたので、
銅戈軍は東日本に気を取られ、奥深く関東まで追いかけていった。
しかし金印はそのまた息子に持たせて西に潜伏させた。
これが比良夫貝という水軍で、諫早市を中心とした伊邪國を根城にして、
倭国の主流となったカモ銅戈軍と敵対していたわけだな。
吉野ヶ里の環濠は比良夫貝をおびき寄せて内部に捕獲し、軍事情報を尋問するために設備だろう。
平戸市や佐世保の比良町などにその名残りがあるのだろう。
佐世保高島の宮の本遺跡などからプロ漕ぎ手の遺骨が出土しており、
本来は対馬海峡を渡海して海外交流した倭舟の漕ぎ手であり、
その当主である難升米が卑弥呼傘下に入って大率となってからは、再度対馬海峡を往来した。
というより刺史の如く末蘆国~壱岐対馬の地方行政をもしきり、だから今も長崎県所属なのだな。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/
平原遺跡に御柱が立っている理由も説明がつく。
元はと言えば、比良夫貝は古代越ヌナカワ土井ヶ浜遺跡の女王とも親密であり、
奴国王は比良夫貝水軍を味方につけるためにも口説いたのかもしれんな。
そう考えるとその頃から比良夫貝は奴国王サイドとして、カモの銅剣女王國との戦争に参加していたのだから、
奴国王が失脚して倭国実権を握ったカモ銅戈軍は逆襲したという見方もできる。
比良夫貝頭領の難升米が大率として活躍したのであれば、
日本海を股にかけて、水軍を率いて北は蝦夷を討ち、西は白村江の戦にて補給部隊として活躍した、
阿倍比羅夫もまた筑紫大宰帥となったのだな。
率=師で、大率=大宰帥という九州説の論はまたいつものように奥が深く、
阿倍比羅夫もまた長崎の水軍を率いたのかもしれないし、
逆に難升米もまた兵糧不足の魏軍司馬懿に補給をしてあげて、そのお礼が親魏倭王金印や銀印だった、という説も見えてくるのではないかな。
銅戈軍は東日本に気を取られ、奥深く関東まで追いかけていった。
しかし金印はそのまた息子に持たせて西に潜伏させた。
これが比良夫貝という水軍で、諫早市を中心とした伊邪國を根城にして、
倭国の主流となったカモ銅戈軍と敵対していたわけだな。
吉野ヶ里の環濠は比良夫貝をおびき寄せて内部に捕獲し、軍事情報を尋問するために設備だろう。
平戸市や佐世保の比良町などにその名残りがあるのだろう。
佐世保高島の宮の本遺跡などからプロ漕ぎ手の遺骨が出土しており、
本来は対馬海峡を渡海して海外交流した倭舟の漕ぎ手であり、
その当主である難升米が卑弥呼傘下に入って大率となってからは、再度対馬海峡を往来した。
というより刺史の如く末蘆国~壱岐対馬の地方行政をもしきり、だから今も長崎県所属なのだな。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/
平原遺跡に御柱が立っている理由も説明がつく。
元はと言えば、比良夫貝は古代越ヌナカワ土井ヶ浜遺跡の女王とも親密であり、
奴国王は比良夫貝水軍を味方につけるためにも口説いたのかもしれんな。
そう考えるとその頃から比良夫貝は奴国王サイドとして、カモの銅剣女王國との戦争に参加していたのだから、
奴国王が失脚して倭国実権を握ったカモ銅戈軍は逆襲したという見方もできる。
比良夫貝頭領の難升米が大率として活躍したのであれば、
日本海を股にかけて、水軍を率いて北は蝦夷を討ち、西は白村江の戦にて補給部隊として活躍した、
阿倍比羅夫もまた筑紫大宰帥となったのだな。
率=師で、大率=大宰帥という九州説の論はまたいつものように奥が深く、
阿倍比羅夫もまた長崎の水軍を率いたのかもしれないし、
逆に難升米もまた兵糧不足の魏軍司馬懿に補給をしてあげて、そのお礼が親魏倭王金印や銀印だった、という説も見えてくるのではないかな。
銅矛については、
中細形2本は義父である豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍の部下だった古参倭人隊長のもので、
中広形14本は中広形銅矛将軍の奴族隊長のものということになりますね。
土井ヶ浜遺跡の女王は中広形銅矛将軍の手に落ち、
荒神谷にあった青銅器工房に
十六尋の大軍がやって来て、大量の銅剣を押収した、ということでしょう。
過去スレで検討したように、国内制圧した中広形銅矛将軍は奴国王となり、
今度は鉄原料を求めて半島出兵していきます。
にもかかわらず、これだけ大量の青銅器をリサイクルせず埋納したということは、
・武器の主流が鉄器となっていた
・青銅原料の入手量が充分確保されていた
ということですね。
北方の奴族との連携があった、ことを示唆しますね。
中細形2本は義父である豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍の部下だった古参倭人隊長のもので、
中広形14本は中広形銅矛将軍の奴族隊長のものということになりますね。
土井ヶ浜遺跡の女王は中広形銅矛将軍の手に落ち、
荒神谷にあった青銅器工房に
十六尋の大軍がやって来て、大量の銅剣を押収した、ということでしょう。
過去スレで検討したように、国内制圧した中広形銅矛将軍は奴国王となり、
今度は鉄原料を求めて半島出兵していきます。
にもかかわらず、これだけ大量の青銅器をリサイクルせず埋納したということは、
・武器の主流が鉄器となっていた
・青銅原料の入手量が充分確保されていた
ということですね。
北方の奴族との連携があった、ことを示唆しますね。
奴国王と土井ヶ浜遺跡女王の、
長男が、建沼河男命。次男が、建御名方命。
男系は奴国王、女系は旧八岐大蛇族、でしょうが、
母方の祖父や曽祖父は、燕人や、豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍でしょうね。
建沼河男命は土井ヶ浜遺跡周辺を継いで、
建御名方命は荒神谷遺跡周辺を継いだわけですね。
後者の子孫が難升米で、神原神社古墳なども関わってきます。
長男が、建沼河男命。次男が、建御名方命。
男系は奴国王、女系は旧八岐大蛇族、でしょうが、
母方の祖父や曽祖父は、燕人や、豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍でしょうね。
建沼河男命は土井ヶ浜遺跡周辺を継いで、
建御名方命は荒神谷遺跡周辺を継いだわけですね。
後者の子孫が難升米で、神原神社古墳なども関わってきます。
菱環鈕式
↓
外縁付鈕式1式2式
↓
扁平鈕式1式2式
↓
突線鈕1式 ここまでが聞く銅鐸
↓
突線鈕2式3式 近畿式・三遠式
↓
突線鈕4式5式 ほぼ近畿式
松帆銅鐸 菱環鈕1外縁付鈕6
荒神谷遺跡 菱環鈕1外縁付鈕5 中広形銅矛16 中細形銅剣358
加茂岩倉遺跡 外縁付鈕30扁平鈕式9
柳沢遺跡 外縁付鈕5(1つは扁平鈕式か) 樋結合型銅戈1樋分離型銅戈7
桜ヶ丘遺跡 外縁付鈕4扁平鈕10 樋分離型銅戈7
大岩山遺跡 突線鈕24(4式5式は3)
↓
外縁付鈕式1式2式
↓
扁平鈕式1式2式
↓
突線鈕1式 ここまでが聞く銅鐸
↓
突線鈕2式3式 近畿式・三遠式
↓
突線鈕4式5式 ほぼ近畿式
松帆銅鐸 菱環鈕1外縁付鈕6
荒神谷遺跡 菱環鈕1外縁付鈕5 中広形銅矛16 中細形銅剣358
加茂岩倉遺跡 外縁付鈕30扁平鈕式9
柳沢遺跡 外縁付鈕5(1つは扁平鈕式か) 樋結合型銅戈1樋分離型銅戈7
桜ヶ丘遺跡 外縁付鈕4扁平鈕10 樋分離型銅戈7
大岩山遺跡 突線鈕24(4式5式は3)
>>70
鉛同位体比などからは、
菱環鈕から外縁付鈕1式までの古式の銅鐸が、朝鮮半島系の青銅原料。
外縁付鈕2式以降が、華北産中国系の青銅原料ですね。
前108年に楽浪郡が設置されたことで、漢本国から楽浪郡までの流通が容易になって、
輸送コストの低下から、華北原料のコストも下がって、倭人の調達先としてメインになったのでしょう。
となると、
前100年頃に、同系統の外縁付鈕にて、1式から2式への材料変化があったことになりますね。
楽浪郡史が伊都國にいたのは、青銅原料の取引が目的(もちろん朱なども)でもあったのでしょう。
荒神谷遺跡の銅鐸は古いものだけですが、これは時代によるものではなく、
おそらく溶かして使用するのに、古い銅鐸の材質よりも、外縁付鈕2式以降を溶かした材質の方が、
武器としての銅剣を作るのに適していた、ということでしょうね。
外縁付鈕2式以降のものも荒神谷遺跡に運び込まれていたが、これらは優先的に溶かされて銅剣の材料にされていった。
古い銅鐸はとりあえず使われず置いてあったので、荒神谷遺跡占領時に一緒に埋納されることになった。
ということでしょうね。
突線鈕2式3式の、近畿式・三遠式については、
西からの銅戈軍と、東に逃げ込んだ軍神軍が、どちらも同じような鉛同位体比のものを使っていることから、
軍神が逃走する前、つまり奴国王時代の一世紀中頃から、大量に輸入していた華北産青銅原料のもの、
ということになりますね。
楽浪郡から倭に流通した青銅原料は、一世紀中頃から少なくとも二世紀初頭までは、ほぼ一つの鉱山からのものだったのですね。
鉛同位体比などからは、
菱環鈕から外縁付鈕1式までの古式の銅鐸が、朝鮮半島系の青銅原料。
外縁付鈕2式以降が、華北産中国系の青銅原料ですね。
前108年に楽浪郡が設置されたことで、漢本国から楽浪郡までの流通が容易になって、
輸送コストの低下から、華北原料のコストも下がって、倭人の調達先としてメインになったのでしょう。
となると、
前100年頃に、同系統の外縁付鈕にて、1式から2式への材料変化があったことになりますね。
楽浪郡史が伊都國にいたのは、青銅原料の取引が目的(もちろん朱なども)でもあったのでしょう。
荒神谷遺跡の銅鐸は古いものだけですが、これは時代によるものではなく、
おそらく溶かして使用するのに、古い銅鐸の材質よりも、外縁付鈕2式以降を溶かした材質の方が、
武器としての銅剣を作るのに適していた、ということでしょうね。
外縁付鈕2式以降のものも荒神谷遺跡に運び込まれていたが、これらは優先的に溶かされて銅剣の材料にされていった。
古い銅鐸はとりあえず使われず置いてあったので、荒神谷遺跡占領時に一緒に埋納されることになった。
ということでしょうね。
突線鈕2式3式の、近畿式・三遠式については、
西からの銅戈軍と、東に逃げ込んだ軍神軍が、どちらも同じような鉛同位体比のものを使っていることから、
軍神が逃走する前、つまり奴国王時代の一世紀中頃から、大量に輸入していた華北産青銅原料のもの、
ということになりますね。
楽浪郡から倭に流通した青銅原料は、一世紀中頃から少なくとも二世紀初頭までは、ほぼ一つの鉱山からのものだったのですね。
中広型銅矛の奴国王が失脚した後の倭国を席巻したのが、
カモ系銅戈勢力ですね。
銅戈は奴国領域を占領、ならびに伊都国でも製作され、領土拡大へと出兵していきます。
長野県に逃げ込んだ、奴国王水軍大将「軍神」の攻略と、大阪湾上陸など畿内毛人の攻略、とについてです。
長野県の柳沢遺跡から銅戈と銅鐸の一括埋納遺構が出土しています。
・柳沢遺跡の銅戈は樋分離式(近畿式)で、初期のもの
・柳沢遺跡より奥の関東には祭祀型銅戈型の石戈が出土
・東日本にS字甕や多孔銅鏃が一定期間分布
・近畿式銅鐸と東海式銅鐸が一定期間愛知で睨み合い
つまり、
軍神が金印を持っていると考え、銅戈軍は征伐軍を派遣したものの、
軍神はより奥地へと銅戈軍を引きずり込んで、
関東奥地で壊滅させたわけですね。
銅戈が柳沢遺跡止まりで、関東まで分布していないので、
銅戈軍が継続的に派遣されて、柳沢遺跡からさらに周囲へと占領拡大したのではなく、
柳沢遺跡に攻め込んだ銅戈軍が、さらに奥地へと深入りさせられて、全滅したことになります。
軍神はおそらく、主要根拠地の諏訪ではなく、柳沢遺跡の方に陣を張っておびき寄せ、
わざと敗走して占領させた。
合戦で射るのもわざと、鉄鏃銅鏃2:石鏃8、くらいの割合にして、
物資不足を強調してみせる。
銅戈軍は金印奪取が主目的なので、弱小軍神軍を関東へと追撃します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/413
所々で分岐して、銅戈軍を分裂させてからの、
関東奥深くで反転攻勢して補給路や逃走路を絶ってからの、各個撃破、したのでしょうね。
全滅でしょう。
カモ系銅戈勢力ですね。
銅戈は奴国領域を占領、ならびに伊都国でも製作され、領土拡大へと出兵していきます。
長野県に逃げ込んだ、奴国王水軍大将「軍神」の攻略と、大阪湾上陸など畿内毛人の攻略、とについてです。
長野県の柳沢遺跡から銅戈と銅鐸の一括埋納遺構が出土しています。
・柳沢遺跡の銅戈は樋分離式(近畿式)で、初期のもの
・柳沢遺跡より奥の関東には祭祀型銅戈型の石戈が出土
・東日本にS字甕や多孔銅鏃が一定期間分布
・近畿式銅鐸と東海式銅鐸が一定期間愛知で睨み合い
つまり、
軍神が金印を持っていると考え、銅戈軍は征伐軍を派遣したものの、
軍神はより奥地へと銅戈軍を引きずり込んで、
関東奥地で壊滅させたわけですね。
銅戈が柳沢遺跡止まりで、関東まで分布していないので、
銅戈軍が継続的に派遣されて、柳沢遺跡からさらに周囲へと占領拡大したのではなく、
柳沢遺跡に攻め込んだ銅戈軍が、さらに奥地へと深入りさせられて、全滅したことになります。
軍神はおそらく、主要根拠地の諏訪ではなく、柳沢遺跡の方に陣を張っておびき寄せ、
わざと敗走して占領させた。
合戦で射るのもわざと、鉄鏃銅鏃2:石鏃8、くらいの割合にして、
物資不足を強調してみせる。
銅戈軍は金印奪取が主目的なので、弱小軍神軍を関東へと追撃します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/413
所々で分岐して、銅戈軍を分裂させてからの、
関東奥深くで反転攻勢して補給路や逃走路を絶ってからの、各個撃破、したのでしょうね。
全滅でしょう。
>>20
柳沢遺跡を起点にして、四方から石戈が出土していますね。
柳沢遺跡から出土した銅戈は8本ですから、8尋の大軍ですね。
上越市から川沿いに攻め込んだ銅戈軍は初戦を勝利して、中野市で勝利式典を行った。
銅鐸は、軍神側が、物見として山腹に配備していたのを接収したものですね。
軍神本隊は、軽井沢方面へ撤退しますが、急いで逃げ去るのではなく、
背を見せつつ銅戈軍を挑発し続けます。
柳沢遺跡占領直後の銅戈軍の軍議では、
・柳沢遺跡周辺の鎮圧に専念して、北部九州からの援軍を待つか、
・柳沢遺跡から更に出陣して、自軍だけで軍神軍を討って金印を奪取するか
で、銅戈軍将軍は後者を選んだわけですね。
まだ陣中にあって、青銅原料や工房工人などありませんから、旗印は石戈で代用して、
軍を分けて、
四方に散る軍神ゲリラ部隊を掃討にかかるのと、
軽井沢方面の軍神本隊の追撃と、にかかったわけです。
四方に散る石戈のうち、埋納されずに住居跡などから見つかったものは、
それぞれの場所で孤立して各個撃破された跡でしょう。
関東へ深入りした先の、前中西遺跡にて、方形周溝墓から石戈が出土しています。
同じ遺跡の住居からは、樋分離型銅戈型の石戈も出土しています。
が、武具などは出土していませんね。
この集落の辺りで、銅戈軍の総大将が討たれた。ということでしょう。
同じ水軍大将同士、元は北部九州時代の顔見知りでもあったでしょうから、
軍神が銅戈軍総大将を方形周溝墓に弔ってあげた、ということでしょうね。
柳沢遺跡を起点にして、四方から石戈が出土していますね。
柳沢遺跡から出土した銅戈は8本ですから、8尋の大軍ですね。
上越市から川沿いに攻め込んだ銅戈軍は初戦を勝利して、中野市で勝利式典を行った。
銅鐸は、軍神側が、物見として山腹に配備していたのを接収したものですね。
軍神本隊は、軽井沢方面へ撤退しますが、急いで逃げ去るのではなく、
背を見せつつ銅戈軍を挑発し続けます。
柳沢遺跡占領直後の銅戈軍の軍議では、
・柳沢遺跡周辺の鎮圧に専念して、北部九州からの援軍を待つか、
・柳沢遺跡から更に出陣して、自軍だけで軍神軍を討って金印を奪取するか
で、銅戈軍将軍は後者を選んだわけですね。
まだ陣中にあって、青銅原料や工房工人などありませんから、旗印は石戈で代用して、
軍を分けて、
四方に散る軍神ゲリラ部隊を掃討にかかるのと、
軽井沢方面の軍神本隊の追撃と、にかかったわけです。
四方に散る石戈のうち、埋納されずに住居跡などから見つかったものは、
それぞれの場所で孤立して各個撃破された跡でしょう。
関東へ深入りした先の、前中西遺跡にて、方形周溝墓から石戈が出土しています。
同じ遺跡の住居からは、樋分離型銅戈型の石戈も出土しています。
が、武具などは出土していませんね。
この集落の辺りで、銅戈軍の総大将が討たれた。ということでしょう。
同じ水軍大将同士、元は北部九州時代の顔見知りでもあったでしょうから、
軍神が銅戈軍総大将を方形周溝墓に弔ってあげた、ということでしょうね。
初期は、奴国王の義父である豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍が総大将だった。
旗印は中細形銅矛。
中期に義父が亡くなり、奴国王は倭人では無いものの、軍事力を背景に将軍位に首尾よく収まった。
旗印は中広形銅矛。
そんな銅矛銅剣戦争の末期ですね。
対馬海峡経由の青銅原料ルートの上位に位置する中広形銅矛軍に対して、
平形銅剣女王軍は劣勢となり、青銅原料不足に陥り、
後の狗奴国と同じく、領内の青銅器をかき集めて青銅製武器を作ろうとした。
鋳型の出土分布からみて、
銅鐸なら平形銅剣女王国で製作する技術があったが、
戦での使用に耐えうる実戦用銅剣を製作する技術は無かった。
そこで、土井ヶ浜遺跡の燕人に交渉を持ちかけたわけですね。
燕人はそもそも倭人と縁があり、
新興の奴族である中広形銅矛将軍を好ましく思っていなかった。
平形銅剣女王国の銅鐸を集め、
燕人が持参してきた虎の子の青銅器を加えて、
それらを溶かして、大量の銅剣を製作し、反転攻勢しようとした。
それを察知した中広形銅矛将軍が、土井ヶ浜遺跡の女王を口説き落として、
大勢は決した戦いで劣勢側に参戦することを恐れた女王が折れて、
一気に終戦となったわけですね。
旗印は中細形銅矛。
中期に義父が亡くなり、奴国王は倭人では無いものの、軍事力を背景に将軍位に首尾よく収まった。
旗印は中広形銅矛。
そんな銅矛銅剣戦争の末期ですね。
対馬海峡経由の青銅原料ルートの上位に位置する中広形銅矛軍に対して、
平形銅剣女王軍は劣勢となり、青銅原料不足に陥り、
後の狗奴国と同じく、領内の青銅器をかき集めて青銅製武器を作ろうとした。
鋳型の出土分布からみて、
銅鐸なら平形銅剣女王国で製作する技術があったが、
戦での使用に耐えうる実戦用銅剣を製作する技術は無かった。
そこで、土井ヶ浜遺跡の燕人に交渉を持ちかけたわけですね。
燕人はそもそも倭人と縁があり、
新興の奴族である中広形銅矛将軍を好ましく思っていなかった。
平形銅剣女王国の銅鐸を集め、
燕人が持参してきた虎の子の青銅器を加えて、
それらを溶かして、大量の銅剣を製作し、反転攻勢しようとした。
それを察知した中広形銅矛将軍が、土井ヶ浜遺跡の女王を口説き落として、
大勢は決した戦いで劣勢側に参戦することを恐れた女王が折れて、
一気に終戦となったわけですね。
>>85
砂丘墓地+貝輪繋がりで、
土井ヶ浜遺跡から少なくとも古浦砂丘遺跡まで勢力圏だったのでしょうね。
古浦砂丘遺跡の、額から左眼にかけて青緑色の青銅器装着痕がある男性4人は、
おそらく燕系の青銅器工人の頭領でしょう。
炉の炎をずっと見ていると目が焼けるので、遮光器ゴーグルを装着していた。
スリット型だと視力向上効果もあるので一石二鳥ですね。
さらに旧八岐大蛇族のファッションセンスで、スチームパンク風の21世紀レベルの
おしゃれな青銅製遮光ゴーグルを常用していたのですね。一石三鳥でしょうか。
同じ渡来系奴族工人が西の奴国で成功しているのを見ていて、
平形銅剣女王国からの援軍依頼を受けた時に、
はるか逃れてきた東夷辺境の島国で、一旗揚げてみようかと、色気が出たのでしょうね。
土井ヶ浜女王とは意見が対立しながら、銅剣作成を引き受けたのでしょう。
燕系工人が強固な戦闘用銅剣を作るには、古式銅鐸の朝鮮系青銅ではなく、
外縁付鈕2式以降の華北系青銅が最適だった。
それに、燕族持参の青銅を混合したわけですね。
砂丘墓地+貝輪繋がりで、
土井ヶ浜遺跡から少なくとも古浦砂丘遺跡まで勢力圏だったのでしょうね。
古浦砂丘遺跡の、額から左眼にかけて青緑色の青銅器装着痕がある男性4人は、
おそらく燕系の青銅器工人の頭領でしょう。
炉の炎をずっと見ていると目が焼けるので、遮光器ゴーグルを装着していた。
スリット型だと視力向上効果もあるので一石二鳥ですね。
さらに旧八岐大蛇族のファッションセンスで、スチームパンク風の21世紀レベルの
おしゃれな青銅製遮光ゴーグルを常用していたのですね。一石三鳥でしょうか。
同じ渡来系奴族工人が西の奴国で成功しているのを見ていて、
平形銅剣女王国からの援軍依頼を受けた時に、
はるか逃れてきた東夷辺境の島国で、一旗揚げてみようかと、色気が出たのでしょうね。
土井ヶ浜女王とは意見が対立しながら、銅剣作成を引き受けたのでしょう。
燕系工人が強固な戦闘用銅剣を作るには、古式銅鐸の朝鮮系青銅ではなく、
外縁付鈕2式以降の華北系青銅が最適だった。
それに、燕族持参の青銅を混合したわけですね。
古浦砂丘遺跡のすぐそばの、志谷奥遺跡から、
銅鐸2つと銅剣6本が見つかっています。
銅鐸は、外縁付録1式と扁平紐式が一つずつ。
銅剣は、荒神谷遺跡と同じ中細形銅剣c類が6本。いずれも激しい戦闘で破損しています。
これはどういうことかというと、
銅鐸2つは、平形銅剣女王国からのなけなしの供出品ですね。
燕系青銅職人(=荒神谷遺跡工人=古浦砂丘遺跡工人)が作った最高級銅剣を装備した兵士6人が、
銅鐸を護衛しながら、日本海沿岸を東から西に向かって舟で移動してきたわけですね。
それが上陸してみると、既に中広形銅矛軍に占領されていた。
大量の中広形銅矛占領軍に追いかけられて、銅剣兵達は丘の上に逃げたけれども、
山道の向こう側からも中広形銅矛軍が押し寄せて、逃げ場を失い、
6人とも必死で戦ったが戦死した。
埋納抗がほぼ認められませんから、
6人の遺体と、ボロボロになった銅剣と銅鐸は、山道から放られて斜面に打ち捨てられ、
青銅器だけが残り、土が積もったのでしょう。
銅鐸2つと銅剣6本が見つかっています。
銅鐸は、外縁付録1式と扁平紐式が一つずつ。
銅剣は、荒神谷遺跡と同じ中細形銅剣c類が6本。いずれも激しい戦闘で破損しています。
これはどういうことかというと、
銅鐸2つは、平形銅剣女王国からのなけなしの供出品ですね。
燕系青銅職人(=荒神谷遺跡工人=古浦砂丘遺跡工人)が作った最高級銅剣を装備した兵士6人が、
銅鐸を護衛しながら、日本海沿岸を東から西に向かって舟で移動してきたわけですね。
それが上陸してみると、既に中広形銅矛軍に占領されていた。
大量の中広形銅矛占領軍に追いかけられて、銅剣兵達は丘の上に逃げたけれども、
山道の向こう側からも中広形銅矛軍が押し寄せて、逃げ場を失い、
6人とも必死で戦ったが戦死した。
埋納抗がほぼ認められませんから、
6人の遺体と、ボロボロになった銅剣と銅鐸は、山道から放られて斜面に打ち捨てられ、
青銅器だけが残り、土が積もったのでしょう。
>>1
またデタラメを
そのうち安曇とか言い出して馬脚を表すのだろう
またデタラメを
そのうち安曇とか言い出して馬脚を表すのだろう
港も無い交通の不便な内陸部にに伊都国があったとは思えない。
それと
邪馬台国の四国説とか沖縄説を主張している人は本気なのだろうか。
本気だとはとても思えないのだが。
それと
邪馬台国の四国説とか沖縄説を主張している人は本気なのだろうか。
本気だとはとても思えないのだが。
>>98
そう思うのは、単純に無知で頭が固いから。 @阿波
そう思うのは、単純に無知で頭が固いから。 @阿波
負け惜しみ?
>>101
>四国なら瀬戸内海に海賊とか普通にいるからそのリスクを追ってまで中国側からわざわざお礼の使者をだすかも微妙。
そもそも、「邪馬臺国」「阿波」へ行くのに瀬戸内海は通らないから。 @阿波
>四国なら瀬戸内海に海賊とか普通にいるからそのリスクを追ってまで中国側からわざわざお礼の使者をだすかも微妙。
そもそも、「邪馬臺国」「阿波」へ行くのに瀬戸内海は通らないから。 @阿波
>>102
当時の人間なのか⁈まるで当時の海路を知っているかのようだけど。
いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬→北九州→関門海峡→瀬戸内海→徳島が凡人の俺にはこの海路が普通だと感じる。
熊本から鹿児島、高知から周るのはあまり賢い航海には感じないんだよ。当時の船の能力や技術がどの程度かにもよるけと。
後、当時の地形や陸地がどんな感じかにもよるけど。
当時は5~6メートル水位が低かったような文献をみたようなきもするが⁈
まあ、いろんな意見があるからこのネタは尽きない。
当時の人間なのか⁈まるで当時の海路を知っているかのようだけど。
いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬→北九州→関門海峡→瀬戸内海→徳島が凡人の俺にはこの海路が普通だと感じる。
熊本から鹿児島、高知から周るのはあまり賢い航海には感じないんだよ。当時の船の能力や技術がどの程度かにもよるけと。
後、当時の地形や陸地がどんな感じかにもよるけど。
当時は5~6メートル水位が低かったような文献をみたようなきもするが⁈
まあ、いろんな意見があるからこのネタは尽きない。
ト骨の事が魏志倭人伝にあります。
さてどこですか?
さてどこですか?