暇'S まとめBB

あなたの暇をつぶします

邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1【TOKUMEI】2022/04/30(土) 08:13:26.08
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。
2【TOKUMEI】2022/04/30(土) 08:13:54.58
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。

うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。

袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操兗州東郡の太守に任命し、曹操東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣甯如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣甯(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵~公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた

★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた
4【TOKUMEI】2022/04/30(土) 08:16:05.72
以上テンプレです。

ゴールデンウイークにて特別復活しました。
類似スレは現在ありません。

文献あるいは考古学的根拠をもとに、正々堂々と議論してください。


邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/l50
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/l50
6【TOKUMEI】NG
あぼーん
12【TOKUMEI】2022/04/30(土) 11:17:13.11
13歳で女王=初潮が来たら大人
13【TOKUMEI】2022/04/30(土) 13:48:38.37
日ユ同祖論は一見荒唐無稽に見えますが、完全にありえない話かというと、そうでもないですね。

一つは、オルドス式銅剣。触角式柄頭飾・双環柄頭の特殊な銅剣ですね。
現在のウクライナにいたスキタイが用いていたものですから、
まさに現在と同じように、戦乱などで追われた一群が東アジアへ落ちのびてきた可能性がありますね。
高島市上御殿遺跡からは鋳型も出土していますから、ただ交易で入手されたのではなく、実際に日本列島へ移住してきた人達もいたことになります。
ただしこの鋳型はやや稚拙なので、移住二世か三世のものでしょう。

弥生時代の文明度からは、末蘆國王=柏崎遺跡(伊都説だと笠沙の岬)の元で、
お抱え渡来系工人として召し抱えられていたものと思われます。
同じ高島市の熊野本遺跡で私立の鉄工房を与えられて運営していたのでしょう。

もう一つは、奴国王の居館があった可能性が高い雀居遺跡。
沿海州に特徴的な家畜飼育跡が見つかっており、これも渡来系だった可能性が高いですね。
四隅突出墳丘墓その他、石積み部族であり、夫餘高句麗なども同祖でしょう。
沿海州在地の集団だったのか、
それともオルドス式銅剣と同じように、はるか西方から沿海州にやってきた集団の一部が、日本にやってきたのか、
はわかりませんが、
後者であれば、ユ系である可能性を探るならこの集団が最も可能性が高いかと思われます。

大元の吉武高木大王も、国家形成の最初期から、
遠方の丹後半島に扇谷遺跡など鉄工房を建設して、遠方の木材を消費し、
北部九州倭国の森林を保全するという、
鉄工房を長期にわたって運営した経験のある国家建設を行っていますから、
鉄器を使用した集団が渡来して、大王となったか、
あるいはそのような渡来人が重用されていたか。
ということになりますね。
11【TOKUMEI】2022/04/30(土) 09:30:44.94
奈良時代までの女性天皇は6人8代だが、うち4人が結婚してるし子も産んでいる。
あるいは神功皇后
豊国女王とも考えられる、宗像三女神の少なくとも二柱や、豊玉姫
八咫鏡保有していた神夏磯媛も、夏羽と田油津姫兄妹がその子孫と伝わる。

つまり、古代において女帝だからといって、結婚も出産もしていたわけであるから、
卑弥呼の無夫壻というのは特殊な状況であり、
卑弥呼は何らかの理由で、
「女王にはなれるけれども、結婚はできない状況」にあった、可能性が出てくる。

「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」
王位継承で重要なのは前例、慣例であるから、
壹與を十三歳で王となしたということは、
卑弥呼もまたそれくらいの年齢で王となったという前例があった可能性が高くなる。

卑弥呼は13歳くらいで、まず奴國不彌國の地方女王となった。
女王國=奴國不彌國の運営がうまくいっていたので婚期がやや遅れた。
結婚しないまま女王業務に邁進していたら、20歳前後でHAMを発症した。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/709-710
女王業務は既に成果を上げていたので、そのまま周囲も認めてくれた。
古代女王としては結婚はしないこととなった。
ますます仕事に邁進して業績をあげて、倭国女王に共立されることとなった。

これならば「自爲王以來、少有見者」の説明もつく。
14【TOKUMEI】2022/04/30(土) 13:55:49.17
>>11
卑弥呼の女系はHTLV-1保有の九州縄文系でしょうね。

対馬海峡渡海で漂流すると、沖ノ島で漁をしていた古代豊国人に救助される確率が高いですから、
命の恩人として手厚くお礼をすることになる。

HTLV-1保有者は九州の中では僻地へと押しやられる傾向がありますが、
豊国縄文人だけは命の恩人として厚遇され、
政治的にも生き残ることができたのでしょうね。

ただし宗像の田熊石畑遺跡は、将軍が代々派遣されていた多重環濠遺跡ですから、
吉武高木大王配下の将軍が常駐して、
日本海沿岸を支配する拠点として機能しつつ、
豊国を監視もしていたわけですね。
在日米軍基地のようなものですね。
15【TOKUMEI】2022/04/30(土) 15:14:55.80
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(日)」この意味は「南へ邪馬壹國に至る。女王の都する所(まで)は水行十日陸行一月(日)である。」
「女王所都」ではなく「女王之所都」と之が入っているので文章ではなく名詞句となっている「女王の都する所は」だな。
邪馬壹國の中の女王の首都までが行十日陸行一月(日)
24【TOKUMEI】2022/05/01(日) 04:29:27.82
高知でも硯が見つかったね。(古津賀遺跡、伏原遺跡、祈年遺跡)
北部九州のと同系統らしい。
24【TOKUMEI】2022/05/01(日) 04:29:27.82
高知でも硯が見つかったね。(古津賀遺跡、伏原遺跡、祈年遺跡)
北部九州のと同系統らしい。
25【TOKUMEI】2022/05/01(日) 07:07:23.94
>>24
高地各地に面状に硯が普及していたのは驚きですね。
鐘崎式土器が出土した田村遺跡群にもありそうですね。
HTLV-1も移動していることから、北部九州から縄文系女性を伴って移住している。
つまり軍=男性のみが侵略したのではなく、カモ系の一群が女性と共に移住・開拓したわけですね。

同系統の場所で考えるなら、和歌山や滋賀なども硯が見つかる候補。
淡路島も候補。
銅鐸やアジスキタカヒコネ繋がりだと、岐阜も候補にあがってきますね。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/720-723

北部九州説からは、日本海沿岸に倭種。
瀬戸内沿岸に侏儒國。
高地は裸國で、ここに硯が沢山見つかった。

豊國領域からも硯が見つかり始めていますから、豊國でも文字を使っていた。
その開拓最前線が、各地の銅鐸+環濠集落。

硯が出土した筑前町の旧三輪町が、北部九州説における大倭本部であり、
中広型銅矛奴国王失脚後の、
銅戈時代に大倭~裸国田村遺跡を本拠とし、ニニギ~ウミサチに仕えたのが、
アジスキタカヒコネだったという考察になってきます。
26【TOKUMEI】2022/05/01(日) 07:27:36.70
土佐の硯達が、紀元前から分布していたのなら、豊國勢力の開拓に伴う自然拡散でいいのですが、
紀元後に広まっているとしたら、
中広型銅矛奴国王によるものの可能性が出てきますね。

雀居遺跡の墓地からは縄文系女性の遺骨が複数出土しており、
奴国王は各地の指導的女性を集めて後宮を作っていた可能性があります。
案があって、長文の木簡外交文書を作成していたわけですので、
雀居遺跡で産まれた子は文字教育を受けてから、母の里へと巣立ち、
母系の故郷で指導的立場について文字を普及させた。

卑奴母離の語源は、雀居遺跡に居る母と離れて、母系故郷へ派遣された支配官、
とも読めます。
また、卑狗、卑奴母離、卑彌呼、卑彌弓呼、などの頭についていることから、
卑は我々の感じる卑語ではなく、
倭人自身が支配者の意味を含めて使っていた文字のようですね。
28【TOKUMEI】2022/05/01(日) 10:00:50.97
邪馬台国魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分になりますが?

http://yamadajiro15.wp.xdomain.jp/index.html
31【TOKUMEI】2022/05/01(日) 15:02:06.07
東夷伝里(短里)みたく、古いものは辺縁に残るって意味かな?

日本語の語源にまで言及してるの?
38【TOKUMEI】2022/05/01(日) 17:31:19.41
男子爲王住七八十年=日向三代とするのなら、
自動的に、
倭国乱の開始=神武東征になる。

倭人伝だと「倭國亂 相攻伐歷年」、後漢書だと「桓靈閒倭國大亂 更相攻伐 歷年無主」で倭国王が不在となってる。

あと不思議なのは、第二代の綏靖はなんで欠史扱いなのだろう。
普通に事績が記録されているのだが。
41【TOKUMEI】2022/05/01(日) 17:46:25.40
>>40
勘違いしてるみたいだけど、それを例示したのは、半島が”百済王仁が文字のない倭国に文化を与えた” とか言うねつ造を教科書にまで書いて全国民に広めてるのを知ったから、その反証として百済はそもそも文字がなかったと書いただけ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81

ただ、金印があったり硯が見つかるのは事実とは言え、稲荷山古墳の銅剣みたいに、漢字が書かれた遺物が見つかるのは5世紀に入ってからで、国家として大々的に文字が使われたと言うのはちょっと疑わしいだろう。もちろんそれは半島も同じ。

半島は、文字が書かれた遺物さえ百済新羅の地域では6世紀頃まで出土せず、残ってるのは5世紀の高句麗好太王碑の例の倭国百済新羅を臣従させたってやつくらい。
43【TOKUMEI】2022/05/01(日) 17:55:07.16
>>41
ならいい。

しかし土佐でも硯が見つかったとなると、
北部九州倭国から山陰は紀元前から文字があった可能性があって、
土佐にも弥生時代からその可能性が出てくるわけだろう。

北部九州倭国には、硯、金印、あと楽浪人も暮らしていたから漢字の先生がいつもいたわけだからね。
硯の分布を見れば、どう見ても国家として文字を使っていたのだろう。

そうなると逆に、
楽浪郡と倭國に挟まれた、百済新羅の地域に文字が普及するのが遅かった、というのが逆に謎になる。
大王がいるかいないかが大きいのかな。
35【TOKUMEI】2022/05/01(日) 17:09:38.21
>>33
百済は4世紀末まで漢字がなく、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わった。

ここは記録にある。


>伝った漢字をすぐに倭国から博士を派遣しろと言われて、倭国にも伝えた。中国文化を取り入れてすぐ日本に渡したのが百済である。

これはどこに記録されてる?
46【TOKUMEI】2022/05/01(日) 18:46:14.01
>>35
日本書記に応神天皇16年に百済王仁が来て、太子は王仁を師として諸の典籍を習ったとあるが
応神天皇16年が何時か分からんし、応神天皇の実在も怪しい
8世紀に適当な事を誰かが書いたみたいだね。
47【TOKUMEI】2022/05/01(日) 19:06:01.58
>>45
何が書いてあるの?調べであんまり見つからなかったんで気になる。
48【TOKUMEI】2022/05/01(日) 19:34:52.92
>>47
内行花文鏡が、「大冝子孫」「長冝子孫」。舶載鏡だね。
方格規矩四神鏡が、
「尚方作竟」「尚方佳竟」「陶氏作竟」
+「眞大巧上有仙人不知老渴飲王泉飢食棗浮遊天下敖四海壽敞金石為國保」
尚方作竟とかは舶載鏡だと思うけど。

超大型内行花文鏡5枚は仿製鏡。
70【TOKUMEI】2022/05/04(水) 17:10:11.26
菱環鈕式 

外縁付鈕式1式2式

扁平鈕式1式2式

突線鈕1式 ここまでが聞く銅鐸

突線鈕2式3式 近畿式・三遠式

突線鈕4式5式 ほぼ近畿式

松帆銅鐸 菱環鈕1外縁付鈕6
荒神谷遺跡 菱環鈕1外縁付鈕5 中広形銅矛16 中細形銅剣358
加茂岩倉遺跡 外縁付鈕30扁平鈕式9
柳沢遺跡 外縁付鈕5(1つは扁平鈕式か) 樋結合型銅戈1樋分離型銅戈7
桜ヶ丘遺跡 外縁付鈕4扁平鈕10 樋分離型銅戈7
大岩山遺跡 突線鈕24(4式5式は3)
78【TOKUMEI】2022/05/05(木) 13:16:18.68
奴国王が失脚した時に、その水軍大将だった息子は金印を持って諏訪に逃げかけたと見せかけたので、
銅戈軍は東日本に気を取られ、奥深く関東まで追いかけていった。

しかし金印はそのまた息子に持たせて西に潜伏させた。
これが比良夫貝という水軍で、諫早市を中心とした伊邪國を根城にして、
倭国の主流となったカモ銅戈軍と敵対していたわけだな。
吉野ヶ里の環濠は比良夫貝をおびき寄せて内部に捕獲し、軍事情報を尋問するために設備だろう。

平戸市佐世保の比良町などにその名残りがあるのだろう。
佐世保高島の宮の本遺跡などからプロ漕ぎ手の遺骨が出土しており、
本来は対馬海峡を渡海して海外交流した倭舟の漕ぎ手であり、
その当主である難升米が卑弥呼傘下に入って大率となってからは、再度対馬海峡を往来した。
というより刺史の如く末蘆国~壱岐対馬の地方行政をもしきり、だから今も長崎県所属なのだな。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/
平原遺跡に御柱が立っている理由も説明がつく。

元はと言えば、比良夫貝は古代越ヌナカワ土井ヶ浜遺跡の女王とも親密であり、
奴国王は比良夫貝水軍を味方につけるためにも口説いたのかもしれんな。
そう考えるとその頃から比良夫貝は奴国王サイドとして、カモの銅剣女王國との戦争に参加していたのだから、
奴国王が失脚して倭国実権を握ったカモ銅戈軍は逆襲したという見方もできる。

比良夫貝頭領の難升米が大率として活躍したのであれば、
日本海を股にかけて、水軍を率いて北は蝦夷を討ち、西は白村江の戦にて補給部隊として活躍した、
阿倍比羅夫もまた筑紫大宰帥となったのだな。
率=師で、大率=大宰帥という九州説の論はまたいつものように奥が深く、
阿倍比羅夫もまた長崎の水軍を率いたのかもしれないし、
逆に難升米もまた兵糧不足の魏軍司馬懿に補給をしてあげて、そのお礼が親魏倭王金印や銀印だった、という説も見えてくるのではないかな。
80【TOKUMEI】2022/05/05(木) 13:53:48.24
中広形銅矛(男系奴国王+女系ワニ)が失脚して、
祭祀型銅戈(男系ニギ+女系カモ)時代。
ヤマサチヒコが一時失脚して豊国ワニに匿われた時は、
倭国王も豊国王もカモ系であり、

ワニ王は豊国の中の、ワニ領地のみの地方王。
よって、ヤマサチヒコを筑紫日向へ送り返す時は、一尋ワニ。

広形銅矛男系ヤマサチヒコ+女系ワニが天下を取ると、
倭国王はヤマサチヒコ、豊国王はトヨタマヒメとなり、
出産のため筑紫の日向へやって来たトヨタマヒメは、八尋ワニ。
重臣達の監視下で出産して、王家の文身を入れるため筑紫の日向で出産して、
豊国に女王として帰っていった。ヤマサチヒコの元には代わりに妹を寄こした。

コトシロヌシも、八尋ワニとなっているのだから、豊国王。もしくは、その直属の豊国水軍総大将。
82【TOKUMEI】2022/05/05(木) 18:24:33.06
現代日本人の我々から見ると、本州全域に投射してしまいますが、
弥生倭人の世界では、北部九州を中心とする世界観だったわけですね。

西から、地名・勢力が、
唐津 吾田=阿多 笠沙の岬=柏崎遺跡
糸島 筑紫の日向 三雲井原遺跡
早良 筑紫の日本 吉武遺跡
博多 葦原那珂津国 那珂比恵遺跡~須玖遺跡~
宗像 古代出雲 田熊石畑遺跡
北九州市 古代伯耆 城野遺跡
越 山口県山陰地方~ 土井ヶ浜遺跡~
に比定されます。

越=山口県以東の日本海沿岸にいたのが、八岐大蛇族であり、
古代出雲や古代伯耆を圧迫していましたが、
対馬海峡の伊族がまとまり、
対馬海峡渡海時に漂流した際に救出してもらっていた、古代豊国の八雷神の共立女王と婚姻して、
北部九州沿岸を統一。
吉武遺跡に吉武高木大王が誕生。

吉武高木大王の王族東征将軍が、越の八岐大蛇族を金属製武器で打ち負かして、
田熊石畑遺跡に多重環濠の東方監視基地を作り、
八岐大蛇族領地の尻尾である、丹後半島に扇谷遺跡を建設して長期間運営し、
至高の鉄剣を作成して、吉武高木大王即位時に献上します。
84【TOKUMEI】2022/05/05(木) 18:28:17.76
一方で前一世紀頃に、沿海州から奴族が渡来してきて、
こちらは渡来系の多い、当時は低湿地だった葦原那珂津国に集落形成したわけです。

北方の奴族親戚から青銅原料を入手して、
青銅器作成技術を売りにして、
豊国勢などから、銅鐸や銅剣の作成を受注して生計を立てます。

次第に富を蓄えて、0年に奴国王(中広形銅矛将軍)が誕生して、
お得意先である、豊国の平形銅剣女王に兄弟で求婚に押しかけます。
その先は、過去スレで検討した通りですね。

奴国王は最初は妻である平形銅剣女王に匿われて、太田黒田遺跡へ。
そこにも兄弟が押し寄せてきたので、
木の俣=瀬戸内高地性集落群を抜けて、豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍の元へ。
将軍の娘と懇ろになり、樟脳の染み込んだ衣などで窮地をくぐり抜けて、
将軍の婿に収まった。

豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍と共に軍を起こし、
兄弟を破って奴国を掌握し、さらに
元妻を破って瀬戸内を掌握するために銅矛銅剣戦争を開始した。
86【TOKUMEI】2022/05/05(木) 18:31:22.32
銅鐸について考えると、
本来は大阪兵庫の毛人領域との境界線に配備されていたわけですね。

ですから本来は、出土しているよりもっと密に配備されていた筈ですが、
燕工人がいる荒神谷遺跡に供出するためにかき集められた。
琵琶湖沿岸→日本海沿岸→荒神谷遺跡
瀬戸内沿岸→川で山陽山陰横断→荒神谷遺跡

京都や阿波は遠すぎるのと、毛人最前線なので、銅鐸が残ったわけですね。

集められた銅鐸を溶かして、燕人秘蔵の青銅と混ぜて、銅剣を作った。
そこで終戦になったので、降伏して、
占領軍の中広形銅矛と一緒に埋納された。

加茂岩倉遺跡の銅鐸は、銅剣銅矛戦争の終戦後に、
時間差で送り届けられてきた銅鐸をまとめて埋納したものでしょう。
89【TOKUMEI】2022/05/06(金) 19:25:11.45
こんばんは~
70【TOKUMEI】2022/05/04(水) 17:10:11.26
菱環鈕式 

外縁付鈕式1式2式

扁平鈕式1式2式

突線鈕1式 ここまでが聞く銅鐸

突線鈕2式3式 近畿式・三遠式

突線鈕4式5式 ほぼ近畿式

松帆銅鐸 菱環鈕1外縁付鈕6
荒神谷遺跡 菱環鈕1外縁付鈕5 中広形銅矛16 中細形銅剣358
加茂岩倉遺跡 外縁付鈕30扁平鈕式9
柳沢遺跡 外縁付鈕5(1つは扁平鈕式か) 樋結合型銅戈1樋分離型銅戈7
桜ヶ丘遺跡 外縁付鈕4扁平鈕10 樋分離型銅戈7
大岩山遺跡 突線鈕24(4式5式は3)
90【TOKUMEI】2022/05/07(土) 12:28:04.05
>>70
同位体比などからは、
菱環鈕から外縁付鈕1式までの古式の銅鐸が、朝鮮半島系の青銅原料。
外縁付鈕2式以降が、華北産中国系の青銅原料ですね。

前108年に楽浪郡が設置されたことで、漢本国から楽浪郡までの流通が容易になって、
輸送コストの低下から、華北原料のコストも下がって、倭人の調達先としてメインになったのでしょう。
となると、
前100年頃に、同系統の外縁付鈕にて、1式から2式への材料変化があったことになりますね。

楽浪郡史が伊都國にいたのは、青銅原料の取引が目的(もちろん朱なども)でもあったのでしょう。

荒神谷遺跡の銅鐸は古いものだけですが、これは時代によるものではなく、
おそらく溶かして使用するのに、古い銅鐸の材質よりも、外縁付鈕2式以降を溶かした材質の方が、
武器としての銅剣を作るのに適していた、ということでしょうね。
外縁付鈕2式以降のものも荒神谷遺跡に運び込まれていたが、これらは優先的に溶かされて銅剣の材料にされていった。
古い銅鐸はとりあえず使われず置いてあったので、荒神谷遺跡占領時に一緒に埋納されることになった。
ということでしょうね。

突線鈕2式3式の、近畿式・三遠式については、
西からの銅戈軍と、東に逃げ込んだ軍神軍が、どちらも同じような鉛同位体比のものを使っていることから、
軍神が逃走する前、つまり奴国王時代の一世紀中頃から、大量に輸入していた華北産青銅原料のもの、
ということになりますね。

楽浪郡から倭に流通した青銅原料は、一世紀中頃から少なくとも二世紀初頭までは、ほぼ一つの鉱山からのものだったのですね。
95【TOKUMEI】2022/06/06(月) 12:02:15.75
>>1
またデタラメを

そのうち安曇とか言い出して馬脚を表すのだろう
96【TOKUMEI】2022/06/20(月) 06:29:28.15
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿帯方郡から会稽東冶に至る「中国大陸沿岸の行程」を倭国に転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

おそらく洛陽(後漢曹魏西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)呉を牽制しようとアピールしている可愛い国という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで、呆気ないものですね( *´艸`)
100【TOKUMEI】2022/06/30(木) 17:41:13.21
負け惜しみ?
87【TOKUMEI】2022/05/05(木) 18:33:01.86
銅矛については、
中細形2本は義父である豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍の部下だった古参倭人隊長のもので、
中広形14本は中広形銅矛将軍の奴族隊長のものということになりますね。

土井ヶ浜遺跡の女王は中広形銅矛将軍の手に落ち、
荒神谷にあった青銅器工房に
十六尋の大軍がやって来て、大量の銅剣を押収した、ということでしょう。

過去スレで検討したように、国内制圧した中広形銅矛将軍は奴国王となり、
今度は鉄原料を求めて半島出兵していきます。

にもかかわらず、これだけ大量の青銅器をリサイクルせず埋納したということは、
・武器の主流が鉄器となっていた
・青銅原料の入手量が充分確保されていた
ということですね。

北方の奴族との連携があった、ことを示唆しますね。
109【TOKUMEI】2022/09/07(水) 14:19:23.25
>>87
瀬戸内海の平型銅剣はそれより後の時代のものだから、銅剣勢力範囲が変わったと見るべきでは?

おそらく出雲のそれと同じ成分になりますよ
鋳直されてるはずです
111【TOKUMEI】2022/09/12(月) 13:40:15.29
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

百里

奴国(福岡県博多湾付近)

百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1651274006