フィンガー5の晃(61)、「アメリカ合衆国・琉球政府のパスポートを持って僕らは上京した」
僕は返還前の沖縄で生まれ育った。住んでいた具志川(現・うるま市)は看板から言葉まですべて英語。
米国に多くの日本人が住んでいるようだった。
街を取り締まるのも日本の警官よりもMPが大半で、いつも拳銃をちらつかせていて怖かった。
父は「Aサイン(米兵の出入りを許可)バー」を経営していた。馴染みになる米兵も多く、可愛がってもらった。
店内ではジュークボックスから常にソウルやロックが流れていて、耳に入ってくるのも英語。英語も音楽も自然に体にしみ込んでいた。
テレビはNHKと民放1局。ラジオはすべて英語だ。内地の歌謡界で何がはやっているかなど知るよしもなかった。
こんな環境で育った兄3人が音楽に刺激を受けバンドを始めたことが「フィンガー5」の原点だ。
長男は“演奏させて”と自ら基地に売り込みして、米兵相手に「オールブラザーズ」の名前で活動していた。
腕試しに地元のテレビ番組のコンテストに挑戦すると優勝。局の人に勧められて東京行きを決めた。
僕と妹の妙子は東京行きのタイミングで加入した。まだ小学校1年ぐらいだったから、自分の意思ではなく兄の命令だった。
沖縄は父親に次いで長男が絶対的な権力を持つ。兄貴に言われたら弟は従うしかない。
沖縄の家とバーは親戚たちに任せ「アメリカ合衆国・琉球政府」のパスポートを持っての上京。当初は基地での演奏が目的で、横田基地に近い東村山の一軒家を借りた。
横田でも兄が直談判し、“面白そうな子供バンドがいる”と基地内のバーでの演奏が許された。
僕たちは次第に話題になり立ち見も出るほどの人気に。米兵からはドル札の投げ銭が飛んできて、それはそのまま生活費になった。
困ったのは学校だ。「靴、履いてる」「日本語話せるのか」とバカにされた。
授業中も困った。毎晩のように基地で演奏していたから、授業中は眠くて仕方なかった。沖縄の先生は寝かせてくれたけど、東京では起こされた。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/304908
沖縄が返還された時小2くらいだったかな
全校集会で校長が泣いてたのを覚えてる
全校集会で校長が泣いてたのを覚えてる
ジャクソン5のパクリ
僕の先生は~フィーバー
ドリーム5の学園天国と間違って記憶してるやつ多そう
お元気なんだなぁ懐かしい
ボーイソプラノを保存するために注射するか去勢するか迫られて怖かった言うてたな
タエコなんか子供だったよなあ
M資金で騙された
( ゚Д゚)「へいへいへいへいへいへーいへい!へい!へい!」
(´・ω・)「小泉今日子だね」
(´・ω・)「小泉今日子だね」
マイケル・ジャクソンの様にはなれなかったな
東村山市の家は知ってるなあ
アキラの歌は衝撃的だった
彼らが売れた頃はすでに本土復帰していたけどな
下積み時代は外国だった
下積み時代は外国だった
せ~んせ~ぃい~い~~!
シングルのジャケットのイラストがなぜか水島新司
84年頃沖縄行ったら、免税店あったような気がする
沖縄返還されて50年
昭和47年1972年の話
昭和47年1972年の話
授業の始まる前のベルの音に~
肝心の金をさしゅう?されてた文が無いからやりなおし
故上島竜兵と同い年か
何を言いたいんだ?
子供のときのそのままでおっさんになってるなw
>>74
電撃!ストラダ5
電撃!ストラダ5
>>77
お爺さん・・・
俺も見てたよ
お爺さん・・・
俺も見てたよ
最初女の子だと思ってた
MPってなに?
マッドポリスと普通の警官とがいるの?
マッドポリスと普通の警官とがいるの?
>>14
ミズノプロの略だよ
ミズノプロの略だよ
GWに実家に帰ったときに押し入れの中から学園天国のシングルレコードが出てきたわ
水島新司が描いたジャケットのやつ
水島新司が描いたジャケットのやつ
親父は国家公務員で返還前に沖縄出張に行った
お土産はソテツのタネだった
お土産はソテツのタネだった
GWに実家に帰ったときに押し入れの中から学園天国のシングルレコードが出てきたわ
水島新司が描いたジャケットのやつ
水島新司が描いたジャケットのやつ