【日本史】 なぜ徳川家康は関ヶ原の戦いで圧勝できたのか…「会議の空気を読む」が最重要のスキルと言えるワケ
2022/09/14 12:00
「やりたくない」とは言い出せない空気をつくりあげた
PRESIDENT Online
加来 耕三
歴史家、作家
自分の望み通りに相手を動かすには、どうすればいいのか。歴史家の加来耕三氏は「徳川家康は、関ヶ原の戦いの前に『自分につくか石田三成につくかは、各々で決めればいい』と言った。自分の意見を直接言わず、第三者をうまく使うことはときに大きな効果を生む」という――。
※本稿は、加来耕三『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
https://president.jp/articles/-/61356
秀吉亡き後、ライバルを順番に蹴落としていった家康
小山評定とは、下野の小山(現・栃木県小山市)で開かれた会議のことです。
秀吉亡き後、家康は自己の地位を盤石なものにするために、ライバルたち――特に、自分と同じ五大老に任じられた人々を、蹴落としにかかります。
まず、前田利家の子で、利家が亡くなった後は五大老の一人に列せられていた利長に対して、謀叛の疑いがあるとして、前田家征伐の計画を立てます。利長は悩んだ末に、母親の芳春院(まつ)を家康に人質として差し出しました(これが参勤交代の発端となります)。
こうして前田家は、家康に屈したのでした。
次に家康がターゲットに定めたのが、やはり五大老の一人である会津(現・福島県会津地方)の上杉景勝でした。家康は、景勝にも謀叛の疑いがあるとして上洛を命じます。しかし、景勝はこれを拒否したため、家康は会津征伐を決意しました。
この会津征伐は、大義名分としては「豊臣家に対する叛逆者である景勝を成敗する」ということでしたから、家康の家臣だけではなく、家康は大老筆頭として豊臣恩顧の大名も数多く従えることができました。
総勢で6万9000もの大軍勢になった、といいます。
次ページ
https://president.jp/articles/-/61356?page=2
「やりたくない」とは言い出せない空気をつくりあげた
PRESIDENT Online
加来 耕三
歴史家、作家
自分の望み通りに相手を動かすには、どうすればいいのか。歴史家の加来耕三氏は「徳川家康は、関ヶ原の戦いの前に『自分につくか石田三成につくかは、各々で決めればいい』と言った。自分の意見を直接言わず、第三者をうまく使うことはときに大きな効果を生む」という――。
※本稿は、加来耕三『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
https://president.jp/articles/-/61356
秀吉亡き後、ライバルを順番に蹴落としていった家康
小山評定とは、下野の小山(現・栃木県小山市)で開かれた会議のことです。
秀吉亡き後、家康は自己の地位を盤石なものにするために、ライバルたち――特に、自分と同じ五大老に任じられた人々を、蹴落としにかかります。
まず、前田利家の子で、利家が亡くなった後は五大老の一人に列せられていた利長に対して、謀叛の疑いがあるとして、前田家征伐の計画を立てます。利長は悩んだ末に、母親の芳春院(まつ)を家康に人質として差し出しました(これが参勤交代の発端となります)。
こうして前田家は、家康に屈したのでした。
次に家康がターゲットに定めたのが、やはり五大老の一人である会津(現・福島県会津地方)の上杉景勝でした。家康は、景勝にも謀叛の疑いがあるとして上洛を命じます。しかし、景勝はこれを拒否したため、家康は会津征伐を決意しました。
この会津征伐は、大義名分としては「豊臣家に対する叛逆者である景勝を成敗する」ということでしたから、家康の家臣だけではなく、家康は大老筆頭として豊臣恩顧の大名も数多く従えることができました。
総勢で6万9000もの大軍勢になった、といいます。
次ページ
https://president.jp/articles/-/61356?page=2
山上さんにはこの句を送ろう
心しらぬ 人は何とも言はばいへ
身をも惜まじ 名をも惜まじ
心しらぬ 人は何とも言はばいへ
身をも惜まじ 名をも惜まじ
小早川がいたのも大きい
細野…
細野…
>>34
その人らも悪人だったんじゃね?
その人らも悪人だったんじゃね?
>>42
俺は、時には善人、時には悪人になる
特定の場面でどちらの俺が現れてくるかは完全に運だな
俺は、時には善人、時には悪人になる
特定の場面でどちらの俺が現れてくるかは完全に運だな
おバカ理論過ぎて言葉も出ない
こんなのが平気で歴史家を名乗ってるのが現実
だから近代史観とやらは絶対に信用出来ない
こんなのが平気で歴史家を名乗ってるのが現実
だから近代史観とやらは絶対に信用出来ない
>>29
正解はないよね。正解だなんていう学者もいない
ただ、端切れ程度の情報でも
しっかり見て考えろって先人の伝言みたいなもんだと思う
正解はないよね。正解だなんていう学者もいない
ただ、端切れ程度の情報でも
しっかり見て考えろって先人の伝言みたいなもんだと思う
小山会議が史実とか恥ずかしいこと言ってるねw
今は20年前に常識とされていたことがどんどん覆ってる
関ヶ原のかつての常識は非常識
直江状なんてないし三成と上杉は対立勢力
小山会議もないし当然家康に城を次々開け渡した事実もない
毛利輝元が西軍の大将として戦う気満々で
三成が主導したとされることすら怪しくなってる
それくらい知っとけw
>>1
今は20年前に常識とされていたことがどんどん覆ってる
関ヶ原のかつての常識は非常識
直江状なんてないし三成と上杉は対立勢力
小山会議もないし当然家康に城を次々開け渡した事実もない
毛利輝元が西軍の大将として戦う気満々で
三成が主導したとされることすら怪しくなってる
それくらい知っとけw
>>1
そりゃ石田三成が木端官僚だったからだろ
現場を分からん官僚が、どれだけ正論を声高に叫んでも誰もついて来んよ
現代でも同じよ
そう意味では家康は賢い
三成の後ろ盾に利家がいたら話しは変わったかも知れん
現場を分からん官僚が、どれだけ正論を声高に叫んでも誰もついて来んよ
現代でも同じよ
そう意味では家康は賢い
三成の後ろ盾に利家がいたら話しは変わったかも知れん
>>34
その人らも悪人だったんじゃね?
その人らも悪人だったんじゃね?
>>42
家康も死んだ
家康も死んだ
小早川が裏切ったからだろ
>>1
無能のくせに偉そうに分析してみた雰囲気キモいわ戦国やぞブチ殺してまえの精神が強かったんよアホか
無能のくせに偉そうに分析してみた雰囲気キモいわ戦国やぞブチ殺してまえの精神が強かったんよアホか
まあしかし少し立ち回りミスっただけで斬られちゃう時代に天下取れた人の言動には重みがあるわ
人を致して人に致されずとはよう言ったものだな。
三成操られるように、家康得意の野戦に引きずり出されてるしw
三成操られるように、家康得意の野戦に引きずり出されてるしw
小早川が裏切ったからだろ
>>85
小早川のあれ無しでも戦力差は歴然としてたよ
あいつの裏切りで半日で勝負決まっただけで
小早川のあれ無しでも戦力差は歴然としてたよ
あいつの裏切りで半日で勝負決まっただけで
どうした突然。
ツッコミできないならさっさとログ消してバイバイした方が楽だぞ
ツッコミできないならさっさとログ消してバイバイした方が楽だぞ
結局は、三河でまとまるようになっていた
当時の武家社会はよ
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
当時の武家社会はよ
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
三成のクビが飛んだ後は次は大阪城で会いましょうってレベルだから
まともに戦おうとする最後のグループで、そう言う意味で
後世に主力と捉えられるのは仕方ない気はする
まともに戦おうとする最後のグループで、そう言う意味で
後世に主力と捉えられるのは仕方ない気はする
それはあの頃のボス達はもれなく
娘や養子のやり取りで親族になりましょうの会のメンバーだったからだろ
娘や養子のやり取りで親族になりましょうの会のメンバーだったからだろ
俺も経歴欄には「歴史家」と書くことにした。
銀英伝は全部読んでるし。
銀英伝は全部読んでるし。
歴史を学ぶことはめちゃくちゃ重要だけど
歴史家の「こうすればいい」みたいなのは大体的外れ
歴史家の「こうすればいい」みたいなのは大体的外れ
>>137
天正地震の影響は確かにあったと思うけど、地震直後秀吉は再度徳川攻めようとしてる
家康攻めのため上杉や真田にも出兵要請してるし、被害軽微だったとは言わないが家康攻めは可能だったんだろう
家康攻めが行われなかった最大の原因は地震の影響よりも、島津との交渉が不調に終わったため島津征伐しなきゃならなくなったことだと思う
島津征伐のため急遽家康と和睦して家康は命拾いした形になった
もし島津が大人しく秀吉に従ってたら家康も潰されてた可能性はある
天正地震の影響は確かにあったと思うけど、地震直後秀吉は再度徳川攻めようとしてる
家康攻めのため上杉や真田にも出兵要請してるし、被害軽微だったとは言わないが家康攻めは可能だったんだろう
家康攻めが行われなかった最大の原因は地震の影響よりも、島津との交渉が不調に終わったため島津征伐しなきゃならなくなったことだと思う
島津征伐のため急遽家康と和睦して家康は命拾いした形になった
もし島津が大人しく秀吉に従ってたら家康も潰されてた可能性はある
>>149
でもそれだと島津を倒した後、なんで家康を潰さなかったのか?
フロイス「日本史」によれば、
秀吉は、織田信雄、家康、北条の同盟を恐れていたというが
それでも北条を倒した後、信雄を潰して
家康だけ、なぜ潰されなかったのか?
北条打倒後、九戸政美の乱に家康を動員したり、
伊達政宗の反乱を警戒していたというから
東北への抑えとして家康を必要としていたのではないか?
でもそれだと島津を倒した後、なんで家康を潰さなかったのか?
フロイス「日本史」によれば、
秀吉は、織田信雄、家康、北条の同盟を恐れていたというが
それでも北条を倒した後、信雄を潰して
家康だけ、なぜ潰されなかったのか?
北条打倒後、九戸政美の乱に家康を動員したり、
伊達政宗の反乱を警戒していたというから
東北への抑えとして家康を必要としていたのではないか?
こんなもん勝てば官軍いくらでも何とでも言えんだよ
くだらねえ
くだらねえ
どっちも主力が関ヶ原にいないから
果たして決戦という意識だったのか怪しいんだけどな
果たして決戦という意識だったのか怪しいんだけどな
中世日本
脳みそ永遠の戦国時代
脳みそ永遠の戦国時代
それよりもさ
石田三成の嫁と子供はさ
家康が保護して生活に苦労しないようにと金銭まで与えていたのな
子供は旗本にまでなってるし
こういうのが中国、韓国とは違うんだなって思うの
石田三成の嫁と子供はさ
家康が保護して生活に苦労しないようにと金銭まで与えていたのな
子供は旗本にまでなってるし
こういうのが中国、韓国とは違うんだなって思うの
>>154
ても豊臣家の神社は荒してたよな
その辺は大陸的
ても豊臣家の神社は荒してたよな
その辺は大陸的
>「徳川家康は、関ヶ原の戦いの前に『自分につくか
>石田三成につくかは、各々で決めればいい』
これ、築山殿と信康さんを処分する時に家康が
信長から「そっちにまかせる」と言われたのと似てるなあ
はっきり言わず相手の出方を見る、ある意味怖いやり方
>石田三成につくかは、各々で決めればいい』
これ、築山殿と信康さんを処分する時に家康が
信長から「そっちにまかせる」と言われたのと似てるなあ
はっきり言わず相手の出方を見る、ある意味怖いやり方
徳川は自分に逆らわせないために参勤交代をやらせたりした
そのために地方は疲弊して薩摩の島津なんてのは8公2民なんていう重税を布くことになった
こんなヤクザの子孫は殺してしまったほうが国のためな
そのために地方は疲弊して薩摩の島津なんてのは8公2民なんていう重税を布くことになった
こんなヤクザの子孫は殺してしまったほうが国のためな