織田信長の人物像・人間像について考える
織田信長像というものは、明治以後も現代に至るまで、例えば神国である日本における、桶狭間の戦いのような奇跡的な勝利を挙げる軍人のモチーフとして現れたり、慣例にとらわれずに合理的な手段で改革を進める型破りな組織のリーダーや経営者の姿として、
時に応じて、断続的なものではないものの、断片的に日本人の精神の中にその姿を見せる存在となっています。
織田信長の人物像・人間像すなわち織田信長像についてみなさんで考えていきましょう。
時に応じて、断続的なものではないものの、断片的に日本人の精神の中にその姿を見せる存在となっています。
織田信長の人物像・人間像すなわち織田信長像についてみなさんで考えていきましょう。
織田信長は部下には厳しく庶民には優しい人だったのです
信長が優しかったっていうは本当だと思う。秀吉が天下を獲ってから書状かなんかで「俺は信長みたいに甘くない」って言っていたからな。
目新しさを求めた訳じゃなく実証的な研究によって評価が是正されただけ
>>32
その実証的とされる評価も、池上裕子とかおかしいのがやっていて怪しいのが多いがね。
その実証的とされる評価も、池上裕子とかおかしいのがやっていて怪しいのが多いがね。
最近は有名になってお金稼ごうって専門家が増えてきているから、今までの通説を否定するのに必死。
その方がインパクトがあるから。
その結果うまくいって大河ドラマの監修とかになった者もいる。
例えば上杉謙信の度重なる関東出兵は家臣を食べさせる為だとか。
そんな少人数食べさせたところで何の意味もないがな。
常識で考えて、そこまで言うか、と思うがね。
磯田道史みたいにマジメにやっとる奴が言うならまだわかるがな。
専門家もアタリハズレがあるから気をつけろ!
その方がインパクトがあるから。
その結果うまくいって大河ドラマの監修とかになった者もいる。
例えば上杉謙信の度重なる関東出兵は家臣を食べさせる為だとか。
そんな少人数食べさせたところで何の意味もないがな。
常識で考えて、そこまで言うか、と思うがね。
磯田道史みたいにマジメにやっとる奴が言うならまだわかるがな。
専門家もアタリハズレがあるから気をつけろ!
55はそれほどキチガイでもないよ
信長はやたら真面目な人だよ、優しい人でもあるし
これ今の研究家が言ってるわけじゃなく、当時の人が言ってる
信長はやたら真面目な人だよ、優しい人でもあるし
これ今の研究家が言ってるわけじゃなく、当時の人が言ってる
昔は『秀吉の数々の逸話は全部嘘だが信長の伝説的な話は全て本当らしい』
と得意満面に主張する奴がいた
現実には
大嘘の三段打ちに始まって、眉唾の鉄工船、平安時代(多分もっと前)から
戦場では弓が主力なのに見かけ倒しの長槍をさも革新的であるかのように扱う
平安時代から起きている寺社の焼き討ちを神仏を恐れぬ合理主義者と印象操作
その過程で秀吉始め部下たちは天罰に恐れおののく原始人扱い
その他パクり政策をオリジナルだと印象操作
信長は何一つ悪くないが信者が持ち上げ過ぎて実像の姿とかけ離れてるね
信長の伝説は全て真実だと言ってた連中は引き下がれないのではないかな
この手の連中にとっては本当の事より自分の面子の方が大事だろうから
と得意満面に主張する奴がいた
現実には
大嘘の三段打ちに始まって、眉唾の鉄工船、平安時代(多分もっと前)から
戦場では弓が主力なのに見かけ倒しの長槍をさも革新的であるかのように扱う
平安時代から起きている寺社の焼き討ちを神仏を恐れぬ合理主義者と印象操作
その過程で秀吉始め部下たちは天罰に恐れおののく原始人扱い
その他パクり政策をオリジナルだと印象操作
信長は何一つ悪くないが信者が持ち上げ過ぎて実像の姿とかけ離れてるね
信長の伝説は全て真実だと言ってた連中は引き下がれないのではないかな
この手の連中にとっては本当の事より自分の面子の方が大事だろうから
55はそれほどキチガイでもないよ
信長はやたら真面目な人だよ、優しい人でもあるし
これ今の研究家が言ってるわけじゃなく、当時の人が言ってる
信長はやたら真面目な人だよ、優しい人でもあるし
これ今の研究家が言ってるわけじゃなく、当時の人が言ってる
>>57 信長は正義漢だし。
しかも陣頭で自ら戦を指導。しかも
その判断も優れていることが多い。(ヘマはあるが。)
声はよく通る響く声だし、武芸は鍛錬しているし、
仕事人間だし、まさに当時の英雄。
しかも陣頭で自ら戦を指導。しかも
その判断も優れていることが多い。(ヘマはあるが。)
声はよく通る響く声だし、武芸は鍛錬しているし、
仕事人間だし、まさに当時の英雄。
吉川英治や司馬遼太郎の影響で、秀吉からみた暴君信長像が昭和の大衆の原像だったと
いうことがおおきいんじゃないか。「サル!」だの「イヌ!」だの暴言はいて、気分次第で上級
武将を殴り飛ばしたり粛清したり。平成ころから信長像を問い直すような小説が出始めて流れが
変ったようにおもう。個人的には津本陽の「下天は夢か」が面白くて、個人的な信長像が大きく
かわるきっかけになったわ。
いうことがおおきいんじゃないか。「サル!」だの「イヌ!」だの暴言はいて、気分次第で上級
武将を殴り飛ばしたり粛清したり。平成ころから信長像を問い直すような小説が出始めて流れが
変ったようにおもう。個人的には津本陽の「下天は夢か」が面白くて、個人的な信長像が大きく
かわるきっかけになったわ。
実は戦争っていうものが大嫌いだから天下統一したかったんだろうなあって思う
戦争をなくすために戦争をするしかない矛盾を生きた人
戦争をなくすために戦争をするしかない矛盾を生きた人
桶狭間が奇襲ていうのはとっくに
否定されてんじゃなかったっけ
否定されてんじゃなかったっけ
>山際
信長公記の桶狭間合戦に関する記述の中で、山というのはおけはざま山しかでてこない。
このような文章で山とだけ書かれている場合、前述の山を指すのが一般的と思う。
また豪雨が過ぎた直後に信長が今川勢に攻めかかっていることから
その山に今川勢が布陣していたことが分かる。
この一致から織田勢が近づいたのはおけはざま山の山際である可能性が大きい。
さて織田勢に攻めかかられた今川勢は算を乱して崩れたとある。
これが攻撃を予知していない部隊の反応であることは言うまでもない。
その際義元の塗輿も打ち捨てて逃げたとのことなので、その部隊は義元の輿を担ぐ人達の
所属する部隊(義元本隊)ということになる。
(しかしながらその後信長が「義元の旗本はあれだ、あれにかかれ」と下知していることから
義元の旗本とは遠目にそれと分かる程度の距離があった)
桶狭間奇襲説の否定は信長公記の解釈によるとのことだが
信長公記に基づきやはり奇襲であったと自分は考える。
信長公記の桶狭間合戦に関する記述の中で、山というのはおけはざま山しかでてこない。
このような文章で山とだけ書かれている場合、前述の山を指すのが一般的と思う。
また豪雨が過ぎた直後に信長が今川勢に攻めかかっていることから
その山に今川勢が布陣していたことが分かる。
この一致から織田勢が近づいたのはおけはざま山の山際である可能性が大きい。
さて織田勢に攻めかかられた今川勢は算を乱して崩れたとある。
これが攻撃を予知していない部隊の反応であることは言うまでもない。
その際義元の塗輿も打ち捨てて逃げたとのことなので、その部隊は義元の輿を担ぐ人達の
所属する部隊(義元本隊)ということになる。
(しかしながらその後信長が「義元の旗本はあれだ、あれにかかれ」と下知していることから
義元の旗本とは遠目にそれと分かる程度の距離があった)
桶狭間奇襲説の否定は信長公記の解釈によるとのことだが
信長公記に基づきやはり奇襲であったと自分は考える。
>>160
山といったって、結構範囲が広いと思うので、豪雨が来た時に、信長が近づいていたのが、
義元本陣の近くだったかは、まだ疑問の余地があると思う。
言ってみれば、桶狭間山の、義元本陣が布陣していた場所から結構距離のある山際に来た時に、
豪雨が来て、信長公記を読むと、その雨は今川勢にとっては正面から当たる雨で、
桶狭間山の方に向かう織田勢にとっては後ろに当たる通り雨だったように思うので、
そのまま今川勢が前線の状況を把握しにくくなってる状況で、織田勢は義元本陣近くまで移動し、
織田側にはその通り雨が行き過ぎて、今川勢にはまだ当たっていると思われる状況で攻撃した、
っていう解釈も可能だと思う。
上記に書いたように、信長公記を読むと、その豪雨の通り雨は、桶狭間山の方に向かう織田側にとっては背中に当たり、
今川勢にとっては正面から当たる向きの雨だったように思う。
なので、今川勢にとっては正面から当たる向きでいきなり豪雨が、しかも信長公記を読むと、
雨の勢いでそれなりのサイズと思しき木が倒されてるように思うので、
そんなのが正面から当たってきたら、前線の把握どころじゃない状況になっておかしくないと思う。
それで、そうやって今川勢が混乱してる所に、上記のように信長公記を読むと、
今川勢と違って、通り雨が背中に当たる向きで、しかも通り雨が今川勢より先に移動しきって落ち着いた織田勢が攻撃を仕掛けてきたなら、
今川勢は文字通り戦闘どころじゃなくなって、逃げ出すのが普通だと思う。
信長は、信長公記を読むと、今川勢が混乱して敗走した事で、義元の塗輿が捨てられたと思しき描写の後で、
義元の直属部隊について言及してるように思う。
なので、この時点まで信長が自身達が戦っている部隊が、
今川勢の本陣であるかを知っていたのか、疑問に思う。
>>161にあるような感じで、
少なくとも、信長公記を読むと、信長が桶狭間山に向かって移動しようとするまでにおいて、
信長が義元本陣の場所がどこなのか、を知れるだけの情報を得ている形跡はない様に僕は思う。
山といったって、結構範囲が広いと思うので、豪雨が来た時に、信長が近づいていたのが、
義元本陣の近くだったかは、まだ疑問の余地があると思う。
言ってみれば、桶狭間山の、義元本陣が布陣していた場所から結構距離のある山際に来た時に、
豪雨が来て、信長公記を読むと、その雨は今川勢にとっては正面から当たる雨で、
桶狭間山の方に向かう織田勢にとっては後ろに当たる通り雨だったように思うので、
そのまま今川勢が前線の状況を把握しにくくなってる状況で、織田勢は義元本陣近くまで移動し、
織田側にはその通り雨が行き過ぎて、今川勢にはまだ当たっていると思われる状況で攻撃した、
っていう解釈も可能だと思う。
上記に書いたように、信長公記を読むと、その豪雨の通り雨は、桶狭間山の方に向かう織田側にとっては背中に当たり、
今川勢にとっては正面から当たる向きの雨だったように思う。
なので、今川勢にとっては正面から当たる向きでいきなり豪雨が、しかも信長公記を読むと、
雨の勢いでそれなりのサイズと思しき木が倒されてるように思うので、
そんなのが正面から当たってきたら、前線の把握どころじゃない状況になっておかしくないと思う。
それで、そうやって今川勢が混乱してる所に、上記のように信長公記を読むと、
今川勢と違って、通り雨が背中に当たる向きで、しかも通り雨が今川勢より先に移動しきって落ち着いた織田勢が攻撃を仕掛けてきたなら、
今川勢は文字通り戦闘どころじゃなくなって、逃げ出すのが普通だと思う。
信長は、信長公記を読むと、今川勢が混乱して敗走した事で、義元の塗輿が捨てられたと思しき描写の後で、
義元の直属部隊について言及してるように思う。
なので、この時点まで信長が自身達が戦っている部隊が、
今川勢の本陣であるかを知っていたのか、疑問に思う。
>>161にあるような感じで、
少なくとも、信長公記を読むと、信長が桶狭間山に向かって移動しようとするまでにおいて、
信長が義元本陣の場所がどこなのか、を知れるだけの情報を得ている形跡はない様に僕は思う。
>>176
信長公記を読むと、信長が秘匿してる傾向なんてまったくないように思うんだけど。
>>165にあるような感じで、信長が独自に情報を得ている形跡もないと思うし、
重臣達がそれを知らないという論拠もないように思うのに、
なんで君はそんな事を書くのか、そっちの方が疑問に思うけど。
>>175
そんな事を言ったら、信長奇襲説の基になったと思われる、甫庵信長記の描写、
一応同時代の他家の記録である甲陽軍鑑、太田の記録である信長公記、の全てで
桶狭間の描写は違ってるように思われるのに、君がそんな事を書いたってしょうがないと思う。
織田側の家臣である太田がまとめた信長公記の方が、比較的他の資料よりは信ぴょう性高そうに思われる、
っていうだけの話だと思う。
信長公記を読むと、信長が秘匿してる傾向なんてまったくないように思うんだけど。
>>165にあるような感じで、信長が独自に情報を得ている形跡もないと思うし、
重臣達がそれを知らないという論拠もないように思うのに、
なんで君はそんな事を書くのか、そっちの方が疑問に思うけど。
>>175
そんな事を言ったら、信長奇襲説の基になったと思われる、甫庵信長記の描写、
一応同時代の他家の記録である甲陽軍鑑、太田の記録である信長公記、の全てで
桶狭間の描写は違ってるように思われるのに、君がそんな事を書いたってしょうがないと思う。
織田側の家臣である太田がまとめた信長公記の方が、比較的他の資料よりは信ぴょう性高そうに思われる、
っていうだけの話だと思う。
信長は本当は隠れながら迂回して今川強襲部隊と合流する予定だった
しかし強い雨が背中から降ったのでこれ幸いと最短ルートを選んで進軍した
これが信長の判断
そこで今川強襲部隊と合流して位置を特定されている今川義元を囲いながら攻撃したのだ
今川強襲部隊こそ信長の信頼していた精鋭部隊であった
彼らは既に現地に展開していたが、完全に姿は消していた
これが桶狭間の真実だと予想する
しかし強い雨が背中から降ったのでこれ幸いと最短ルートを選んで進軍した
これが信長の判断
そこで今川強襲部隊と合流して位置を特定されている今川義元を囲いながら攻撃したのだ
今川強襲部隊こそ信長の信頼していた精鋭部隊であった
彼らは既に現地に展開していたが、完全に姿は消していた
これが桶狭間の真実だと予想する
>>173 >>174
だから、>>179にも似た事書いたように、信長公記をそのまま読めば、
信長は丸根、鷲津の砦に攻撃が仕掛けられた情報を受けて、急いで出撃したように思うので、
この時点で信長が今川義元本陣の所在を知っていた形跡は信長公記には、少なくともない様に思うし、
シンプルに考えれば、これは丸根、鷲津を攻撃されて、その救援の為に急いで出撃した、としか解釈の仕様がないように思うけど。
そもそも、これまた上記179にも似た事書いたように、信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、
それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。
今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、
仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、
それこそ信長の計画は厳しいと思う。
さらに、これまた上記179にも似た事書いたように、義元本陣が大高城にでもいたら、それこそ信長の計画はお手上げ、っていう事になってしまうと思う。
そもそも、信長公記においての桶狭間の描写を基にしてさえ、豪雨が来なかったら、
信長勢が今川義元本陣に勝てたか疑問に思うし、不確定要素が多すぎると思う。
そもそも、上記179にも似た事書いたように、今川義元本陣が桶狭間山まで移動したのは、
丸根鷲津が攻略された後のように思うので、
信長公記において、信長が丸根、鷲津の砦が攻撃された事を報告され、急いで城を出た時点では、
義元本陣は桶狭間山になんかいなかったと思う。
この時点で、丸根、鷲津が攻略された後に、今川軍前衛の松平勢が後方に下がり、
今川義元本陣が桶狭間山にまで出てくる事を想定可能な情報なんか、特にない様に思う。
なので、信長は特にそんな事を当てにしないで、上記179にも似た事書いたように、
丸根、鷲津を攻略した後の今川軍前衛が、
順当に引き続いて前に出てくる事を想定し、疲弊したその軍勢を攻撃して勝利しようとしていた、
っていうだけに思う。
だから、>>179にも似た事書いたように、信長公記をそのまま読めば、
信長は丸根、鷲津の砦に攻撃が仕掛けられた情報を受けて、急いで出撃したように思うので、
この時点で信長が今川義元本陣の所在を知っていた形跡は信長公記には、少なくともない様に思うし、
シンプルに考えれば、これは丸根、鷲津を攻撃されて、その救援の為に急いで出撃した、としか解釈の仕様がないように思うけど。
そもそも、これまた上記179にも似た事書いたように、信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、
それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。
今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、
仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、
それこそ信長の計画は厳しいと思う。
さらに、これまた上記179にも似た事書いたように、義元本陣が大高城にでもいたら、それこそ信長の計画はお手上げ、っていう事になってしまうと思う。
そもそも、信長公記においての桶狭間の描写を基にしてさえ、豪雨が来なかったら、
信長勢が今川義元本陣に勝てたか疑問に思うし、不確定要素が多すぎると思う。
そもそも、上記179にも似た事書いたように、今川義元本陣が桶狭間山まで移動したのは、
丸根鷲津が攻略された後のように思うので、
信長公記において、信長が丸根、鷲津の砦が攻撃された事を報告され、急いで城を出た時点では、
義元本陣は桶狭間山になんかいなかったと思う。
この時点で、丸根、鷲津が攻略された後に、今川軍前衛の松平勢が後方に下がり、
今川義元本陣が桶狭間山にまで出てくる事を想定可能な情報なんか、特にない様に思う。
なので、信長は特にそんな事を当てにしないで、上記179にも似た事書いたように、
丸根、鷲津を攻略した後の今川軍前衛が、
順当に引き続いて前に出てくる事を想定し、疲弊したその軍勢を攻撃して勝利しようとしていた、
っていうだけに思う。
繰り返すが信長は既に義元の位置を把握していた
>『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。
こんな詭弁を最後まで言っていたのは義元のスパイを恐れていたから
裏切りを恐れていたから
これは一貫している
最後の最後で義元の首を取る事を命じた
つまり信長についてきた家来ですら信長は最後まで信用していなかった
それは繰り返すが前田利家や信長公記の作者の太田牛一も含まれていた
>『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。
こんな詭弁を最後まで言っていたのは義元のスパイを恐れていたから
裏切りを恐れていたから
これは一貫している
最後の最後で義元の首を取る事を命じた
つまり信長についてきた家来ですら信長は最後まで信用していなかった
それは繰り返すが前田利家や信長公記の作者の太田牛一も含まれていた
>>180
>信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、
それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。
>今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、
仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、
それこそ信長の計画は厳しいと思う。
織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。
そもそも今が義元は見晴らしのいい桶狭間山に陣を取っていた
これは信長の計画通りだった
つまり豪雨がなければ迂回しなければなかった
>『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。
これはなんとか味方を動かすための詭弁
>>179
>しかし、上記161や上記にあるように、移動途中で丸根、鷲津が攻略された事を知った信長は、
>戦略を変更し、丸根鷲津を攻略してさらに疲弊した今川軍前衛を攻撃して戦果にしようとし、周囲の今川勢を探した所、
>自身達から近くにいる、桶狭間山にいる今川の軍勢を、その前衛だと思い込んだ、っていうだけに思う。
ええ?信長はなぜか?桶狭間山にある本陣をまっすぐ狙っているぞ?
丸根、鷲津を取るのなら後ろから攻撃だろうが
その場合には挟み撃ちになる
桶狭間山に義元がいないのに突っ込めば丸根、鷲津の兵がやがて気がついて挟み撃ちにされる
そんなアホな作戦で桶狭間山に突っ込んだのかよ?
まずありえないよな
どっちを攻撃するにしても自爆
元から桶狭間山に義元がいないとわかっているのなら攻撃はしないはずなんだがな
>信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、
それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。
>今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、
仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、
それこそ信長の計画は厳しいと思う。
織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。
そもそも今が義元は見晴らしのいい桶狭間山に陣を取っていた
これは信長の計画通りだった
つまり豪雨がなければ迂回しなければなかった
>『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。
これはなんとか味方を動かすための詭弁
>>179
>しかし、上記161や上記にあるように、移動途中で丸根、鷲津が攻略された事を知った信長は、
>戦略を変更し、丸根鷲津を攻略してさらに疲弊した今川軍前衛を攻撃して戦果にしようとし、周囲の今川勢を探した所、
>自身達から近くにいる、桶狭間山にいる今川の軍勢を、その前衛だと思い込んだ、っていうだけに思う。
ええ?信長はなぜか?桶狭間山にある本陣をまっすぐ狙っているぞ?
丸根、鷲津を取るのなら後ろから攻撃だろうが
その場合には挟み撃ちになる
桶狭間山に義元がいないのに突っ込めば丸根、鷲津の兵がやがて気がついて挟み撃ちにされる
そんなアホな作戦で桶狭間山に突っ込んだのかよ?
まずありえないよな
どっちを攻撃するにしても自爆
元から桶狭間山に義元がいないとわかっているのなら攻撃はしないはずなんだがな
>>182
だから、>>179にも似た事書いたように、順当に信長は、
大高城に兵糧運び込みを行い、丸根、鷲津を攻略して疲弊した今川軍前衛が、
そのまま前進して桶狭間山にいると思って、それを攻撃して勝利する、っていう事を考えて、
それを実行しようとしただけに思うけど。
>>195とかにも似た事書いたように、信長が桶狭間山にいる今川勢に向かおうとした時点で、
信長が今川勢本陣の所在に関する情報を得ていたと思しき記述は、少なくとも、信長公記を読む限りでは、
ないように思う。
何を言ってるの?君。
信長は、丸根鷲津が攻略された後で、桶狭間山に今川勢前衛がいると思って、
それを攻撃しようとした、っていうだけの話だと思うし、
君の言い方で言うなら、桶狭間山に今川義元本陣がいたって、
丸根鷲津を抑えている今川勢の救援は想定しないといけない、っていう話になると思う。
桶狭間山に義元本陣がいる状況でだけ、他の今川勢が動かない、なんていう話は無いと思うけど、どうなの。
実際には、距離的にも戦闘時間的にも、すぐに駆けつけてくるのが厳しかった、っていうだけに思うし、
信長もそれを想定していたからこそ、特に信長公記でも、それに言及してないんだと思う。
だから、>>179にも似た事書いたように、順当に信長は、
大高城に兵糧運び込みを行い、丸根、鷲津を攻略して疲弊した今川軍前衛が、
そのまま前進して桶狭間山にいると思って、それを攻撃して勝利する、っていう事を考えて、
それを実行しようとしただけに思うけど。
>>195とかにも似た事書いたように、信長が桶狭間山にいる今川勢に向かおうとした時点で、
信長が今川勢本陣の所在に関する情報を得ていたと思しき記述は、少なくとも、信長公記を読む限りでは、
ないように思う。
何を言ってるの?君。
信長は、丸根鷲津が攻略された後で、桶狭間山に今川勢前衛がいると思って、
それを攻撃しようとした、っていうだけの話だと思うし、
君の言い方で言うなら、桶狭間山に今川義元本陣がいたって、
丸根鷲津を抑えている今川勢の救援は想定しないといけない、っていう話になると思う。
桶狭間山に義元本陣がいる状況でだけ、他の今川勢が動かない、なんていう話は無いと思うけど、どうなの。
実際には、距離的にも戦闘時間的にも、すぐに駆けつけてくるのが厳しかった、っていうだけに思うし、
信長もそれを想定していたからこそ、特に信長公記でも、それに言及してないんだと思う。
>>201
>>190に既にその答えは書いてあるように思うけど、なんでそんな事を書くのかな、君は。
>>202
>義元前衛
なんでこんな話になってるのかな。僕は>>200とかでもそんな書き方をしてないと思うんだけど。
僕が言ってるのは、今川軍全体の前衛、っていう意味なんだけど。
例えば、大阪の陣とかでも、家康の本軍は後方にいて、徳川に味方する武将達で、
前衛を任された武将の軍勢が、豊臣方と戦ってるように、
基本的に後方に本軍がいて、直接敵と戦うのは前衛を任された武将の軍勢、っていうのは、
ありふれた事のように思うし、本軍と前衛の位置が離れてる、っていう事例も普通にあるように思う。
今川についても、信長公記を読むと、この時の戦いにおいて、大高城に兵糧入れを行い、
丸根、鷲津で戦って攻略したのは、今川から前衛を任せられた松平勢だと思うので、
その疲弊した前衛部隊が相手なら、信長の率いる軍勢でも十分勝機があると思うので、
信長はそれをしようとしただけに思う。
>乱取り
軍鑑の記述かな?信長公記には特にそんな話なかったように思うけど。
仮に軍鑑の話で言うなら、乱取りで分散している今川勢の隙を突いて、
今川勢に偽装して織田勢が義元を倒した、っていう感じの話になってたと思うから、
それこそ、信長公記とかとまったく違う話になると思う。
>>203
今川については、もともとこの桶狭間において、大高城を救援し、丸根、鷲津を攻略し、
大高城やその周辺地帯を改めて今川の領土にしようとしていたのが、第一目標に思う。
なので、尾張全土を一気に攻略しようとしていたか微妙に思える状況で、前衛を任された松平勢(数千くらいか)が倒されたら、
当時の今川の国力からして、桶狭間の時の軍勢は2万いたかも微妙に思うので、
一割以上の損害を受けたら、さすがにその後の戦いの事も考慮して、それ以上尾張を攻めようとせず、
一旦引き上げて仕切り直し、をしようとするのは普通に思うけど。
むろん、織田も丸根鷲津が攻略され、大高城も救援されて、好ましくない状況に思うけど、
その時点の状況じゃ、今川勢のそれ以上の攻勢を阻止できるなら、それで地域紛争の一局面として十分な成果に思うけど。
>>190に既にその答えは書いてあるように思うけど、なんでそんな事を書くのかな、君は。
>>202
>義元前衛
なんでこんな話になってるのかな。僕は>>200とかでもそんな書き方をしてないと思うんだけど。
僕が言ってるのは、今川軍全体の前衛、っていう意味なんだけど。
例えば、大阪の陣とかでも、家康の本軍は後方にいて、徳川に味方する武将達で、
前衛を任された武将の軍勢が、豊臣方と戦ってるように、
基本的に後方に本軍がいて、直接敵と戦うのは前衛を任された武将の軍勢、っていうのは、
ありふれた事のように思うし、本軍と前衛の位置が離れてる、っていう事例も普通にあるように思う。
今川についても、信長公記を読むと、この時の戦いにおいて、大高城に兵糧入れを行い、
丸根、鷲津で戦って攻略したのは、今川から前衛を任せられた松平勢だと思うので、
その疲弊した前衛部隊が相手なら、信長の率いる軍勢でも十分勝機があると思うので、
信長はそれをしようとしただけに思う。
>乱取り
軍鑑の記述かな?信長公記には特にそんな話なかったように思うけど。
仮に軍鑑の話で言うなら、乱取りで分散している今川勢の隙を突いて、
今川勢に偽装して織田勢が義元を倒した、っていう感じの話になってたと思うから、
それこそ、信長公記とかとまったく違う話になると思う。
>>203
今川については、もともとこの桶狭間において、大高城を救援し、丸根、鷲津を攻略し、
大高城やその周辺地帯を改めて今川の領土にしようとしていたのが、第一目標に思う。
なので、尾張全土を一気に攻略しようとしていたか微妙に思える状況で、前衛を任された松平勢(数千くらいか)が倒されたら、
当時の今川の国力からして、桶狭間の時の軍勢は2万いたかも微妙に思うので、
一割以上の損害を受けたら、さすがにその後の戦いの事も考慮して、それ以上尾張を攻めようとせず、
一旦引き上げて仕切り直し、をしようとするのは普通に思うけど。
むろん、織田も丸根鷲津が攻略され、大高城も救援されて、好ましくない状況に思うけど、
その時点の状況じゃ、今川勢のそれ以上の攻勢を阻止できるなら、それで地域紛争の一局面として十分な成果に思うけど。
>>207
まあ正面攻撃説の人間はしつこいね
これでいろいろな人間を無理やり説き伏せてきたわけか
今川前衛でも同じ事だよ
4万の今川前衛と交戦して勝つとか今の歴史学者しか思いつかんよ
なんでそれがわからんかな?
実際には信長はそれらの前衛をスルーして今川義元の本陣と言うか直属の部隊としか交戦しておらんし
それらの部隊300を完全包囲しているんだけどな
まあ正面攻撃説の人間はしつこいね
これでいろいろな人間を無理やり説き伏せてきたわけか
今川前衛でも同じ事だよ
4万の今川前衛と交戦して勝つとか今の歴史学者しか思いつかんよ
なんでそれがわからんかな?
実際には信長はそれらの前衛をスルーして今川義元の本陣と言うか直属の部隊としか交戦しておらんし
それらの部隊300を完全包囲しているんだけどな
>>207
まあ正面攻撃説の人間はしつこいね
これでいろいろな人間を無理やり説き伏せてきたわけか
今川前衛でも同じ事だよ
4万の今川前衛と交戦して勝つとか今の歴史学者しか思いつかんよ
なんでそれがわからんかな?
実際には信長はそれらの前衛をスルーして今川義元の本陣と言うか直属の部隊としか交戦しておらんし
それらの部隊300を完全包囲しているんだけどな
まあ正面攻撃説の人間はしつこいね
これでいろいろな人間を無理やり説き伏せてきたわけか
今川前衛でも同じ事だよ
4万の今川前衛と交戦して勝つとか今の歴史学者しか思いつかんよ
なんでそれがわからんかな?
実際には信長はそれらの前衛をスルーして今川義元の本陣と言うか直属の部隊としか交戦しておらんし
それらの部隊300を完全包囲しているんだけどな
>>209
違うと思う。
現状では、君が>>179や>>180にあるような感じで、
信長公記を基にするなら、信長が城を出た時点で、
今川義元本陣が桶狭間山にいたかどうかの記述がないように思え事、
(常識的に考えれば、その前に丸根、鷲津の攻略戦が今川勢前衛によって行われているので、
義元本陣はその時点では、今川勢前衛の後方にいたように、個人的には思われる。)
なので、信長が桶狭間山にいる義元本陣を狙って倒そうとしても、そもそも信長が城を出た時点では、
上記のように桶狭間山に義元本陣がいないように思われるので、それを狙って倒すも何もないと思われる事、
そもそも、それまで今川の前衛として戦っていた松平勢を後方に下げ、義元本陣が前に出て、
桶狭間山に布陣するかどうかは、完全に今川側の意思によっているように思われ、
信長がそれを誘導するのが厳しい様に思われる事、
そもそも、信長公記を基にすると、信長が城から出た時点で得ていたように思われる情報では、
義元本陣がその時にどこにいるのかを知っていたかも疑問に思われる事、
これらについて、ちゃんとした論拠を基にして十分な説明をしているとは思えない状況なのに、
君がそんな事を書くのはどうかと思う。
君がそんな事を主張するなら、ちゃんとした論拠とかを基にして説明をして欲しいと思うかな。
違うと思う。
現状では、君が>>179や>>180にあるような感じで、
信長公記を基にするなら、信長が城を出た時点で、
今川義元本陣が桶狭間山にいたかどうかの記述がないように思え事、
(常識的に考えれば、その前に丸根、鷲津の攻略戦が今川勢前衛によって行われているので、
義元本陣はその時点では、今川勢前衛の後方にいたように、個人的には思われる。)
なので、信長が桶狭間山にいる義元本陣を狙って倒そうとしても、そもそも信長が城を出た時点では、
上記のように桶狭間山に義元本陣がいないように思われるので、それを狙って倒すも何もないと思われる事、
そもそも、それまで今川の前衛として戦っていた松平勢を後方に下げ、義元本陣が前に出て、
桶狭間山に布陣するかどうかは、完全に今川側の意思によっているように思われ、
信長がそれを誘導するのが厳しい様に思われる事、
そもそも、信長公記を基にすると、信長が城から出た時点で得ていたように思われる情報では、
義元本陣がその時にどこにいるのかを知っていたかも疑問に思われる事、
これらについて、ちゃんとした論拠を基にして十分な説明をしているとは思えない状況なのに、
君がそんな事を書くのはどうかと思う。
君がそんな事を主張するなら、ちゃんとした論拠とかを基にして説明をして欲しいと思うかな。
>>207
まあ正面攻撃説の人間はしつこいね
これでいろいろな人間を無理やり説き伏せてきたわけか
今川前衛でも同じ事だよ
4万の今川前衛と交戦して勝つとか今の歴史学者しか思いつかんよ
なんでそれがわからんかな?
実際には信長はそれらの前衛をスルーして今川義元の本陣と言うか直属の部隊としか交戦しておらんし
それらの部隊300を完全包囲しているんだけどな
まあ正面攻撃説の人間はしつこいね
これでいろいろな人間を無理やり説き伏せてきたわけか
今川前衛でも同じ事だよ
4万の今川前衛と交戦して勝つとか今の歴史学者しか思いつかんよ
なんでそれがわからんかな?
実際には信長はそれらの前衛をスルーして今川義元の本陣と言うか直属の部隊としか交戦しておらんし
それらの部隊300を完全包囲しているんだけどな
>>209
>300を完全包囲
これも普通に>>197とかで似た事書いてあるように思うけど、その300程の軍勢は、
信長公記を読む限りだと、今川義元直属の部隊である、というだけで、
桶狭間山にいた今川勢の総数ではないように思われるんだけど、
なんで君はそんな事を書いているのか、という事に、答えて欲しいと思うかな。
>>210
>>213にあるような感じで、信長公記を読むと、桶狭間山にいた今川勢を信長は今川勢前衛の松平勢とかと思っていたように思われる。
桶狭間山に今川勢前衛ではなく、義元本陣が進出していた理由も、同じく上記213にあるような感じで、
>>211にも似た事書いたように、
信長には誘導しようもない、ただの今川側司令部の判断でしかないと思う。
それを信長がその時に知った様子も、特に信長公記にはないように思うので、
君がそんな事を書くのはどうかと思う。
>300を完全包囲
これも普通に>>197とかで似た事書いてあるように思うけど、その300程の軍勢は、
信長公記を読む限りだと、今川義元直属の部隊である、というだけで、
桶狭間山にいた今川勢の総数ではないように思われるんだけど、
なんで君はそんな事を書いているのか、という事に、答えて欲しいと思うかな。
>>210
>>213にあるような感じで、信長公記を読むと、桶狭間山にいた今川勢を信長は今川勢前衛の松平勢とかと思っていたように思われる。
桶狭間山に今川勢前衛ではなく、義元本陣が進出していた理由も、同じく上記213にあるような感じで、
>>211にも似た事書いたように、
信長には誘導しようもない、ただの今川側司令部の判断でしかないと思う。
それを信長がその時に知った様子も、特に信長公記にはないように思うので、
君がそんな事を書くのはどうかと思う。
>>1
今川軍が前夜に大高城へ兵糧を入れる
信長は何の支持も出さずに清州城の家臣にばかにされる
鷲津山・丸根山への攻撃の報が信長に入ったのは夜明け
辰の刻に鷲津・丸根砦の方向で煙が上がっていた
この時は騎馬が数人と二百余りの歩兵しかいなかった
午の刻に義元は鷲津・丸根砦を陥落させた報を受けた
豪雨が降り始めたので信長は軍を前進させる
この時に前衛をスルーした
でいつの間にか義元本陣を囲い込んで義元の首を上げた
まあ間違いなく初めから斥候を出して義元を監視しており位置を把握しているよな
4万の義元の軍を見張り、義元の位置を把握していない限りこんな芸当はできない
今川軍が前夜に大高城へ兵糧を入れる
信長は何の支持も出さずに清州城の家臣にばかにされる
鷲津山・丸根山への攻撃の報が信長に入ったのは夜明け
辰の刻に鷲津・丸根砦の方向で煙が上がっていた
この時は騎馬が数人と二百余りの歩兵しかいなかった
午の刻に義元は鷲津・丸根砦を陥落させた報を受けた
豪雨が降り始めたので信長は軍を前進させる
この時に前衛をスルーした
でいつの間にか義元本陣を囲い込んで義元の首を上げた
まあ間違いなく初めから斥候を出して義元を監視しており位置を把握しているよな
4万の義元の軍を見張り、義元の位置を把握していない限りこんな芸当はできない
>>229
だからさあ、信長公記読むと、>>162にも似た事書いたように、
信長は桶狭間山にいる今川の軍勢を本陣だとはまったく思ってないように思うし、
そう思っていたと思しき記述もどこにもないように思うし、
>>228にも似た事書いたように、豪雨が来る前から桶狭間山の今川勢を、今川前衛だと勘違いして移動して、たまたま豪雨が来た事もあって、
桶狭間山の今川勢を崩す事に成功し、上記162にも似た事書いたように、
それで今川義元の塗輿を発見して、それが本陣である事に気が付き、
>>197にも似た事書いたように、今川義元の直属部隊300程が固まって逃げてるのに気が付いて、それを攻撃して、ついに倒した、っていうだけに思うんだけど、
なんで君はそんな事書いているのか、っていう事に答えて欲しいと思うかな。
だからさあ、信長公記読むと、>>162にも似た事書いたように、
信長は桶狭間山にいる今川の軍勢を本陣だとはまったく思ってないように思うし、
そう思っていたと思しき記述もどこにもないように思うし、
>>228にも似た事書いたように、豪雨が来る前から桶狭間山の今川勢を、今川前衛だと勘違いして移動して、たまたま豪雨が来た事もあって、
桶狭間山の今川勢を崩す事に成功し、上記162にも似た事書いたように、
それで今川義元の塗輿を発見して、それが本陣である事に気が付き、
>>197にも似た事書いたように、今川義元の直属部隊300程が固まって逃げてるのに気が付いて、それを攻撃して、ついに倒した、っていうだけに思うんだけど、
なんで君はそんな事書いているのか、っていう事に答えて欲しいと思うかな。
>>229
だからさあ、信長公記読むと、>>162にも似た事書いたように、
信長は桶狭間山にいる今川の軍勢を本陣だとはまったく思ってないように思うし、
そう思っていたと思しき記述もどこにもないように思うし、
>>228にも似た事書いたように、豪雨が来る前から桶狭間山の今川勢を、今川前衛だと勘違いして移動して、たまたま豪雨が来た事もあって、
桶狭間山の今川勢を崩す事に成功し、上記162にも似た事書いたように、
それで今川義元の塗輿を発見して、それが本陣である事に気が付き、
>>197にも似た事書いたように、今川義元の直属部隊300程が固まって逃げてるのに気が付いて、それを攻撃して、ついに倒した、っていうだけに思うんだけど、
なんで君はそんな事書いているのか、っていう事に答えて欲しいと思うかな。
だからさあ、信長公記読むと、>>162にも似た事書いたように、
信長は桶狭間山にいる今川の軍勢を本陣だとはまったく思ってないように思うし、
そう思っていたと思しき記述もどこにもないように思うし、
>>228にも似た事書いたように、豪雨が来る前から桶狭間山の今川勢を、今川前衛だと勘違いして移動して、たまたま豪雨が来た事もあって、
桶狭間山の今川勢を崩す事に成功し、上記162にも似た事書いたように、
それで今川義元の塗輿を発見して、それが本陣である事に気が付き、
>>197にも似た事書いたように、今川義元の直属部隊300程が固まって逃げてるのに気が付いて、それを攻撃して、ついに倒した、っていうだけに思うんだけど、
なんで君はそんな事書いているのか、っていう事に答えて欲しいと思うかな。
>>231
君の思う思うなんかどうでもいいわ
つうか人の文章はちゃんと読んで感想をかけよ
答えるのもアホらしくなるわ
君の思う思うなんかどうでもいいわ
つうか人の文章はちゃんと読んで感想をかけよ
答えるのもアホらしくなるわ
>>233
だから繰り返し言っているだろうが
信長公記の太田はこの時は信長に信頼されていないと
だから何も知らなかったと
つうか信長はこれ以外にも数多くの戦いを経験してそれなりの経験者だぞ
側近にも熟練の武将がいる
なぜに桶狭間の戦いの時だけこんなにアホになるんだよ
だから繰り返し言っているだろうが
信長公記の太田はこの時は信長に信頼されていないと
だから何も知らなかったと
つうか信長はこれ以外にも数多くの戦いを経験してそれなりの経験者だぞ
側近にも熟練の武将がいる
なぜに桶狭間の戦いの時だけこんなにアホになるんだよ
>>236
そういう問題じゃなくて、>>233にあるような感じで、
信長公記を読む限りだと、その時に信長が得られた情報や、
今川勢の状況からして、城を出た時点で、>>180にも似た事書いたように、
桶狭間山に今川勢本陣はいなかったと思われるのに、
それを標的にして信長が向かう事なんかあり得ないと思われる、っていう話なんだけど。
そもそも、>>179にも似た事書いたように、城を出た時点では、信長には今川勢本陣の情報なんか入ってないように思うけど。
経験があったら、超能力者になれるわけじゃないと思うんだけど。
経験あろうとなかろうと、その時点では桶狭間山にいなかったと思われる敵を目標にして
城を飛び出す人はいないと思うし、知りもしない事や、蓋然性が低いと思われる事で戦略を立てる人も少ないだろう、っていう話なんだけど。
信長は単にその時の戦力で冷静に自身達が勝てそうな、疲弊した今川前衛を標的にしてただけに思うんだけど、
信長公記を読むと。
そういう問題じゃなくて、>>233にあるような感じで、
信長公記を読む限りだと、その時に信長が得られた情報や、
今川勢の状況からして、城を出た時点で、>>180にも似た事書いたように、
桶狭間山に今川勢本陣はいなかったと思われるのに、
それを標的にして信長が向かう事なんかあり得ないと思われる、っていう話なんだけど。
そもそも、>>179にも似た事書いたように、城を出た時点では、信長には今川勢本陣の情報なんか入ってないように思うけど。
経験があったら、超能力者になれるわけじゃないと思うんだけど。
経験あろうとなかろうと、その時点では桶狭間山にいなかったと思われる敵を目標にして
城を飛び出す人はいないと思うし、知りもしない事や、蓋然性が低いと思われる事で戦略を立てる人も少ないだろう、っていう話なんだけど。
信長は単にその時の戦力で冷静に自身達が勝てそうな、疲弊した今川前衛を標的にしてただけに思うんだけど、
信長公記を読むと。
誤爆か?
>>290
>>213にあるように、僕も信長公記の桶狭間の今川の軍勢記述などについては、
疑問を呈していると思うけど、それは>>289のように、当時の想定可能そうな石高などを論拠にしているのであって、
君が信長公記の記述に否定や疑問を呈したいというなら、相応の論拠を基にした方がいいと思う。
そもそもの話として、>>289で僕が書いた事を仮に基にするなら、
「圧倒的な今川の大軍を前に不利な信長が緻密な情報収集で今川勢本陣の動向を把握し、奇襲をかけて倒した」というような劇的な話ではなく、
「桶狭間においての今川側遠征軍勢数と守勢の織田側軍勢数はそこまでの違いはなく、
その上、今川は複数の部隊を本陣とは別方面に移動させていて、決戦の時の軍勢数は
織田の軍勢と今川本陣勢でそこまで違いがあったか疑問で、豪雨の影響もあって織田側が勝利して義元を倒した、」
という劇的とは言い難い話になると思う。君はこれでいいのか、という事について、答えて欲しいと思うかな。
>>213にあるように、僕も信長公記の桶狭間の今川の軍勢記述などについては、
疑問を呈していると思うけど、それは>>289のように、当時の想定可能そうな石高などを論拠にしているのであって、
君が信長公記の記述に否定や疑問を呈したいというなら、相応の論拠を基にした方がいいと思う。
そもそもの話として、>>289で僕が書いた事を仮に基にするなら、
「圧倒的な今川の大軍を前に不利な信長が緻密な情報収集で今川勢本陣の動向を把握し、奇襲をかけて倒した」というような劇的な話ではなく、
「桶狭間においての今川側遠征軍勢数と守勢の織田側軍勢数はそこまでの違いはなく、
その上、今川は複数の部隊を本陣とは別方面に移動させていて、決戦の時の軍勢数は
織田の軍勢と今川本陣勢でそこまで違いがあったか疑問で、豪雨の影響もあって織田側が勝利して義元を倒した、」
という劇的とは言い難い話になると思う。君はこれでいいのか、という事について、答えて欲しいと思うかな。
>>294
それは既に解答済みだ
実際にはドラマティックでないのが普通で
ドラマティックにするために創作がある
それは既に解答済みだ
実際にはドラマティックでないのが普通で
ドラマティックにするために創作がある
>>307
最前線には、それこそ前衛となる軍勢を置いておけばいいだろうに。
義元が本軍を率いて大高城に籠っていれば、少なくとも、信長がうかつに攻撃を仕掛ける事は出来ないと思うから、
安全地帯だと思う。
最前線には、それこそ前衛となる軍勢を置いておけばいいだろうに。
義元が本軍を率いて大高城に籠っていれば、少なくとも、信長がうかつに攻撃を仕掛ける事は出来ないと思うから、
安全地帯だと思う。
>>355
知らんよ
この一連の流れも俺と他の人を
混同して返してるじゃん
あんたが自覚してないだけで相手は俺じゃないのまで俺のせいにしてる
そんなんばっかだぞ
知らんよ
この一連の流れも俺と他の人を
混同して返してるじゃん
あんたが自覚してないだけで相手は俺じゃないのまで俺のせいにしてる
そんなんばっかだぞ
>>375
信長が義元本陣勢の場所を前々から知っていたという記述は、少なくとも信長公記にはどこにもないと思うし、
仮に信長がそれを得ていたって、当時の情報収集手段及び、その伝達速度を考慮すれば、
信長が城にいた時に知った義元本陣勢の位置が、信長が移動した時には変わってない保証なんかどこにもないと思うし、
>>373にも似た事書いたように、
義元本陣勢が織田側が攻撃可能そうな位置にいるかどうかは、完全に義元側の判断だと思うので、
そんな事当てにして飛び出して、攻撃できそうにない位置や配置に今川本陣勢がいたら、
それこそ信長は無駄足になるだけだと思うんだけど。
そんな不確定な事を、信長がする意味がわからないと思う。
>砦の救援なら信長本人が動く必要ない
当時の織田と今川の勢力関係で言うなら、信長自身が主力を率いて動かないとどうにもならないと思うし、
ただでさえ、総合的な軍勢数的には少なくとも今川の方が優位そうなのに、
そこで軍勢を小出しにする理由の方が分からないと思う。
この状況じゃ、可能なだけ当主である信長の元に織田は軍勢をまとめて、分散した今川勢の倒せそうな敵を狙うのがセオリーに思う。
その意味で、信長公記を基にするなら、信長は自身の直接率いる軍勢で、疲弊した今川前衛を狙っているように思うので、
セオリーにのっとった行動に思う。
義元直属部隊の旗指物の確認については、>>374に提示されている、>>353 >>359にもろに
それが厳しいと思われる理由について、書いてあると思うんだけど、なんで君読まないの?
わざわざそのまんま提示してあると思うんだけど。
>2方向から
そんな記述、信長公記にも、三河物語にもないように思うけど。
信長公記でも、三河物語でも、信長が直接率いる軍勢が、義元本陣勢を攻撃して勝利したのは共通してるように思うし、
複数方面から攻撃を仕掛けたと思しき記述は特にないように思うけど。
信長が義元本陣勢の場所を前々から知っていたという記述は、少なくとも信長公記にはどこにもないと思うし、
仮に信長がそれを得ていたって、当時の情報収集手段及び、その伝達速度を考慮すれば、
信長が城にいた時に知った義元本陣勢の位置が、信長が移動した時には変わってない保証なんかどこにもないと思うし、
>>373にも似た事書いたように、
義元本陣勢が織田側が攻撃可能そうな位置にいるかどうかは、完全に義元側の判断だと思うので、
そんな事当てにして飛び出して、攻撃できそうにない位置や配置に今川本陣勢がいたら、
それこそ信長は無駄足になるだけだと思うんだけど。
そんな不確定な事を、信長がする意味がわからないと思う。
>砦の救援なら信長本人が動く必要ない
当時の織田と今川の勢力関係で言うなら、信長自身が主力を率いて動かないとどうにもならないと思うし、
ただでさえ、総合的な軍勢数的には少なくとも今川の方が優位そうなのに、
そこで軍勢を小出しにする理由の方が分からないと思う。
この状況じゃ、可能なだけ当主である信長の元に織田は軍勢をまとめて、分散した今川勢の倒せそうな敵を狙うのがセオリーに思う。
その意味で、信長公記を基にするなら、信長は自身の直接率いる軍勢で、疲弊した今川前衛を狙っているように思うので、
セオリーにのっとった行動に思う。
義元直属部隊の旗指物の確認については、>>374に提示されている、>>353 >>359にもろに
それが厳しいと思われる理由について、書いてあると思うんだけど、なんで君読まないの?
わざわざそのまんま提示してあると思うんだけど。
>2方向から
そんな記述、信長公記にも、三河物語にもないように思うけど。
信長公記でも、三河物語でも、信長が直接率いる軍勢が、義元本陣勢を攻撃して勝利したのは共通してるように思うし、
複数方面から攻撃を仕掛けたと思しき記述は特にないように思うけど。
>>376
記述がないのは
取材先の人間がそれを把握してないからでしょ?
取材されてる方も自分の体験か聞いたことしかわからない。
大名の馬印は家来も同じものが立てられるっけ?
推論を推論で否定されても埒が開かないので
私は失礼しますね。
記述がないのは
取材先の人間がそれを把握してないからでしょ?
取材されてる方も自分の体験か聞いたことしかわからない。
大名の馬印は家来も同じものが立てられるっけ?
推論を推論で否定されても埒が開かないので
私は失礼しますね。
>>377
そんな事言うなら、信長公記において、信長が桶狭間山にいる今川勢(義元本陣勢)を
今川前衛だと説明してる事が、不可解になってしまうと思うんだけど。
仮にこの時点で信長が桶狭間山にいる今川の軍勢を、
義元本陣勢として認識していたなら、それを攻撃する時に、
その軍勢を今川本陣勢だとして説明するはずじゃないのかな。
信長公記では、信長は桶狭間山にいる今川の軍勢を、今川前衛だと主張してるように思うけど、
これは君の論旨と矛盾してるように思うんだけど、どう思うかな。
馬印ってそもそもこの時期にそんなにメジャーになってたっけ?
そんな事言うなら、信長公記において、信長が桶狭間山にいる今川勢(義元本陣勢)を
今川前衛だと説明してる事が、不可解になってしまうと思うんだけど。
仮にこの時点で信長が桶狭間山にいる今川の軍勢を、
義元本陣勢として認識していたなら、それを攻撃する時に、
その軍勢を今川本陣勢だとして説明するはずじゃないのかな。
信長公記では、信長は桶狭間山にいる今川の軍勢を、今川前衛だと主張してるように思うけど、
これは君の論旨と矛盾してるように思うんだけど、どう思うかな。
馬印ってそもそもこの時期にそんなにメジャーになってたっけ?
>>387
うーん。描写の解釈の違いだからなんともだけど。
義元本体の前衛部隊は
松井、井伊の部隊を指してると思う。
信長が前衛に正面突撃をかけてそれを突き崩して
義元の本陣になだれ込んだんなら、
松井と井伊を討ち取った描写もあっていいはず。
この戦で打ち取られた両名なので。
信長が移動を開始してから激しい雨が降ったとの
描写があったあと、信長の号令で襲いかかった部隊は
大いに崩れて逃げ惑うという描写の中に
義元の塗輿も打ち捨てられてという表現がある。
これは信長の号令と共に本陣に信長本隊が
殺到したという描写に捉えられると思うけど。
雨を僥倖として義元本陣に一気に寄せていったと
見ているんだがどう?
そもそも本陣突撃は信長の頭の中にだけあったんだろうと
思ってる。情報漏洩を防ぐために。
だから最後まで標的を明かさず先頭突っ切ったんじゃないだろうか。
当然自分の進む方に部下はついてくるからね。
うーん。描写の解釈の違いだからなんともだけど。
義元本体の前衛部隊は
松井、井伊の部隊を指してると思う。
信長が前衛に正面突撃をかけてそれを突き崩して
義元の本陣になだれ込んだんなら、
松井と井伊を討ち取った描写もあっていいはず。
この戦で打ち取られた両名なので。
信長が移動を開始してから激しい雨が降ったとの
描写があったあと、信長の号令で襲いかかった部隊は
大いに崩れて逃げ惑うという描写の中に
義元の塗輿も打ち捨てられてという表現がある。
これは信長の号令と共に本陣に信長本隊が
殺到したという描写に捉えられると思うけど。
雨を僥倖として義元本陣に一気に寄せていったと
見ているんだがどう?
そもそも本陣突撃は信長の頭の中にだけあったんだろうと
思ってる。情報漏洩を防ぐために。
だから最後まで標的を明かさず先頭突っ切ったんじゃないだろうか。
当然自分の進む方に部下はついてくるからね。